都構想9:橋下はん、敵より味方を増やしなはれ

近来の政治家で、橋下大阪市長ほど評価の分かれる政治家は珍しい。「天才」と称える人もいれば、「独裁者」ならまだしも「ヒトラー」とまで呼ぶ品の無い批判者もいる。

これらの毀誉褒貶の殆んどが好き嫌いなので、何とも言いようがないが、「人気稼業」の政治家は「下らぬ理由」で嫌われないほうが良いに決まっている。

マスコミに「喧嘩上手」と言われている橋下市長だが、よく観察してみると反撃には過剰防衛と思える程の激しさがあるが、自分から攻撃を仕掛けた例は殆んど見かけない。


それでは何故、これだけ悪口雑言をたたかれるのか? それは、橋下市長の論争相手に「雑魚」が多すぎる事である。

中国の有名な書家が揮毫した「呑舟之魚不遊支流」(大きな目標を持ち、環境を整え、小事にこだわらないこと)と言う掛け軸を頂いた事があるが、この諺と山城良雄さんの「いろたらあかん」と言うアゴラ記事は相通ずる物がある。

マスコミのレベルの低下で「雑魚」ばかりに囲まれる現在の日本の政治家には「いろたらあかん」を無視する事も難しい。

放って置けば「認めた」と報道され、反論すると「揚げ足」を取られる今の政治家が、「とかくに人の世は住みにくい」とこぼしたとしても当然である。

橋下市長が「いらぬ敵」を作った発言の殆んどが、政策にも本質にも関係ない「いろたらあかん」問題が元になっている事は確かだ。

例えば:
(1)独裁者的発言
「僕が直接選挙で選ばれているので最後は僕が民意だ」「(選挙は)ある種の白紙委任だ」
(2)自己中心的発言
「バカ新潮」「バカ文春」「バカ学者」「オナニー新聞」「クソ教育委員会」「経済界なんてクソの役にも立たない」……。
(3)文化と伝統への独断的発言 
『曾根崎心中』を鑑賞後、「ラストシーンでグッとくるものがなかった」「演出不足だ。昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」「演出を現代風にアレンジしろ」人形遣いの顔が見えると、作品世界に入っていけない」
(4)品格のない正否論争
在日特権を許さない市民の会会長の桜井誠氏との「ヘイトスピーチ」是非論争の直接会見の場で、両者はケンカ腰。「あんた」と桜井氏はが言うと橋下氏は「『あんた』じゃねぇだろ」と言い、桜井氏は「『お前』云々。

等々拾い出したらきりがないが、これでは多くの立派な味方に呆れられ、馬鹿げた敵を作ったとしても仕方がない。

それでは如何したら良いか?

日本語は内容よりも、ニュアンスを大切にする言葉だけに、言葉の選び方で相手に与える印象は様変わりする。

比較としては適切ではないが、言葉の使い方により与える印象が大きく異なる例として、骨太の自由主義者で世紀の名演説家と言われた斉藤隆夫が、1940年に衆議院本会議において日中戦争を批判した反軍演説を行い、それを理由に除名処分を受けた後に記した漢詩:

吾言即是万人声(吾が言は即ち是れ万人の声)
褒貶毀誉委世評(褒貶毀誉は世評に委す)
請看百年青史上(請う百年の青史の上に看る事を)
正邪曲直自分明(正邪曲直自ずから分明)

と、橋下市長の罵詈雑言を並べてみるとその違いが鮮明になる:
「僕が直接選挙で選ばれているので最後は僕が民意だ」(吾言即是万人声 ―吾が言は、即ち是れ万人の声)      
「バカ新潮」「バカ文春」「バカ学者」「オナニー新聞」(褒貶毀誉委世評 ―褒貶毀誉は、世評に委す)       
「演出不足だ。昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」(請看百年青史上―請う百年青史の上を看ることを)     
「あんたじゃねぇだろ」じゃー「お前」云々……(正邪曲直自分明 ―正邪曲直、自ずから分明)

橋下市長が適切な話題を選び、もう少し高尚な言葉にその想いを託していたら、「雑魚」も群がらず、不必要な敵も出来ず、論敵のレベルも向上していたに違いない。

そして欠かせないのが「ユーモア」である。

日本に多く見られる語呂合わせ的なジョークとユーモアは全くの別物で、良く出来たユーモアには反対派の切っ先を鈍らせ、雰囲気を和らげ、多くの人々の好感を呼ぶ効果がある。

政治を舞台にしたジョーク(駄洒落)とユーモアの違いを比べてみると:
2007年の参議院選挙当時の自民党の幹事長だった中川秀直氏が「幹事長だけに、責任を感じちょう」と言ったのは、ジョーク(駄洒落)だが、レーガン大統領が銃撃を受けて病院に担ぎ込まれた時に、手術を担当する医師団が緊張している姿をみて「君らは全員共和党員だろうね!(I hope you all are Republican.))と言って医師団の緊張を和らげたのはユーモアである。

問題は、橋下市長が「私は市長になるための資質をすべて兼ね備えている。第一に抜群の記憶力、第二に……えっと何だったかな?」等とレーガン流のユーモアを混ぜた演説をしたとすると、日本の教養のないマスコミに「傲慢な橋下市長に、老化のきざし!」などと報道されるリスクがある事だ。

本音ベースが持ち味の橋下市長が、無理をして不自然にスタイルを変えたら元も子もなくしてしまう。

何事も、橋下市長に自然に出来る事が大前提であるが、言葉と相手を選ぶ事は直ぐに出来る筈だ。

弁護士兼タレントと言う経歴から、知名度はあっても組織も資金も権力も無しに、短期間にこれだけの影響力と支持者を集めた橋下市長が、類い稀な資質の持ち主である事はいくら橋下市長が嫌いな人でも認めざるを得まい。

橋下市長に大きな期待を持っている筆者は、彼の突出した資質についての私見を、2012年3月にアゴラに寄稿した拙稿「反ハシズム学者が、橋下市長に勝てない理由―私の分析」に書いたので御参照願いたい。

個別具体的な事象から本質と普遍的価値を抽出し、原点を忘れずに論議出来る数少ない政治家である橋下氏の将来は、日本の将来にとっても重要で、そろそろ「論敵を粉砕するより、味方を増やす努力」を始めてもらいたい。

ある心理学者のエッセイによると、人によって好き嫌いの差が激しいのにも理由があると言う。

「嫌いになるのは“自分の身を守る”ためのネガティビティ・バイアスという心の仕組みの影響が大きく、何かを判断するときにポジティブな情報より大きな影響を及ぼす為、物を嫌いにさせることは容易だが、好きにさせることは難しい」そうだ。

とにかく、橋下市長の言動には「不必要なネガティビティ・バイアス・ボタン」の押しすぎが目立つ。

どうしても「ボタン押し」の癖がなくせないのであれば、これを解決して呉れるのは、先程触れた「ユーモア」しかない。

先述の心理学者の「物を嫌いにさせることは容易だが、好きにさせることは難しい」と言う言葉が正しいとしたら、ユーモアは「好きにさせること」の出来る秘薬の一つである。

贔屓の引き倒しのそしりを恐れずに「橋下はん、敵より味方を増やしなはれ」と題して、橋下市長への期待を述べた次第である。

2015年4月28日
北村 隆司