韓国人はなぜ謝罪にこだわるのか? その1

安倍首相がアメリカから帰国し日にちが経っているにもかかわらず、一部ネットのニュースには今だ、韓国発の「安倍首相の謝罪要求」のテーマが並んでいます。先日は中央日報が「日本はなぜ謝罪をしないのか?」というコラムを立ち上げていましたがしつこい韓国人の性格がよく表れていると思います。


朴政権の対日外交は失敗した、あるいは中国からもアメリカからも冷たくされたという報道で慰安婦問題は切り離すと言いながら両国間の問題の本質であることに変わりはありません。(経済と慰安婦を切り離すことでいいとこどりする作戦なのでしょうか。)

安倍首相がアメリカで様々な講演をした中でもっとも重要なポイントは日米が未来志向の努力をしてきたことを双方がきちんと認識し、前に向かっていることを確認したことではないでしょうか?もしも日本が韓国のような謝罪要求文化を前面に出していれば広島、長崎の原爆、大空襲による民間人の損害賠償で今の日米関係はあり得なかったでしょう。そうなれば直接的交戦がほとんどなかった欧州と仲良くしていたのでしょうか?歴史のレバタラです。

日本が未来志向であるのは8月15日の涙によって切り替わった点でもよくわかります。人はそれほど変ることが出来るのか、という外国人の疑問はあるでしょう。しかし、外国には宗教があり、その予言者なり牧師なりがお言葉を発した時、人々の発想は素直に納得し、180度転換することもありましょう。日本は神道であり、八百万の神がいます。その究極は万世一系の天皇であり、その陛下のお言葉は日本人にとっては神の声そのものであったと言ってもよいのであります。

マッカーサー元帥が昭和天皇を戦犯にするかどうかを検討した結果、それをすることは日本を死に追いやるという判断を下したのは実に賢明であるとともによくぞそれだけの勇気ある決断をしたと思います。それが日米間の新たなる未来志向の関係のベースラインであり、現代の成熟しお互いが尊重し合える関係が形成されてきたと思います。

では韓国人はなぜ、謝罪にこだわるのか、様々な見方があるかと思います。

根本は儒教に依るところは否定できないでしょう。司馬遼太郎氏はその著書で「儒教とは華(文明)であるにはどうすればいいかという『宗教』で、『野蛮』を悪とした。しかし現実には文明が野蛮に服従している」とあります。これはうまく言いあてていて、「野蛮」に日本を当てはめるとぴったりくるわけです。

韓国は自分たちが上であるという自負が強い一方で実際には日本から様々な技術を盗み、日本料理をまね、物まねコンビニを作り上げてきました。つまり日本は必要悪であり、なくては困るのです。しかし、悪は悪なのですから思想的に許されません。

残念なことに儒教は宗教の様に代弁する人がいません。ですので儒教は宗教ではなく思想であります。これは発想の修正、修復がしにくい点で過去に固執し、がんじがらめになりやすくなるともいえないでしょうか?

日本は慰安婦問題について過去、何度も謝罪を繰り返しています。しかしながら首相が代わる度に「謝罪」を要求するのはなぜでしょうか?これは謝罪の意味が違うのだろうと考えます。日本では問題が生じた時、世論が騒ぎ、最後、テーブル越しに3人ぐらいが立ち上がり、フラッシュがたかれる中、深々と頭を下げることを意味します。その時点で日本人は程度の差こそあれ、許すことを知っています。許しが出れば再生できるわけです。よく日本人は失敗するとバッテンがついて一生立ち直れないと言います。しかし、ことと状況次第では不遇にはなりますが、ひっそりと静かに生きるという再生は可能です。

ところが韓国の場合には大統領からして1000年も恨み続ける文化であると述べています。これは日本の首相が2年に一度変わるとして500回謝罪してもまだ許しをもらえないという意味であります。

私はこの謝罪とは上下関係の明白化であると考えています。つまり絶対服従を意味しているのではないでしょうか?中華思想において日本は野蛮な国であります。その野蛮な人種から辱めを受けたとするならばそのつじつまは合います。よって謝りつづけさせることによりその上下関係を明白にするポジションセットが背景にあると考えています。

韓国が求める謝罪要求文化についてもう少し書いてみたいと思いますので明日に続けたいと思います。

今日はこのぐらいにしておきましょう。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本 見られる日本人 5月13日付より