頻発する反原発訴訟への疑問、意味あるのか?

2015年05月14日 01:05
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再稼動差し止め判決の出た関西電力高浜原発(同社資料より)

高浜差し止め訴訟から見る反対の論理

反原発を主張する弁護士や市民グループによって、原発運転の差し止めや廃炉を求める訴訟が全国各地で行われている。福井地裁で今年4月に高浜原発の再稼動差し止めの仮処分が認められたことから社会的な注目が集まった。どのような主張が行われているのかを一覧して、今後を考えたい。


全国の原発訴訟をまとめた脱原発弁護団全国連絡会という組織がある。その資料によれば、11年3月の福島原発事故の後に39の訴訟が提訴されている。

今年4月に福井地裁(樋口英明裁判官)は関電の高浜原発3、4号機についてで、再稼動差し止めの仮処分を求めた訴訟で、原告(訴えた側)の市民グループの主張を認めた。同種の訴訟は昨年11月に大津地裁で却下されたが、同12月に福井地裁で再び申し立てられた。樋口裁判官は13年に大飯原発運転差し止めを判断をした人物だ。

高浜差し止め訴訟での論点は、他の原発訴訟とも共通する点があるので示してみる。

第一の争点は、原子力規制委員会が新規制基準で採用した「基準地震動」だった。判決では、「(基準地震動を)超える振動はあってはならないが、東日本大震災などでそれ以上の地震動が原発で計測され、安全性に疑問がある」「基準地震動を地域の地震の平均像を基に策定することに合理性は見出しがたい」という趣旨の2点の判断をした。そして規制を合理性がないとした。

第二の争点は、冷却設備の破損の可能性だ。壊れる可能性を否定できないとして、そのために差し止めを妥当としている。つまり「ゼロリスク」を求めた。

第三の争点は、「原発が嫌だ」という人々の感情の問題である。高浜差し止めの訴訟では大きく取り上げられなかったが、前回の大飯原発の判決では、「人格権」、つまり個人利益の保護の観点から裁判所は直接的に危険性の有無を判断できるとして、差し止めを認めた。

批判集まる高浜原発訴訟の判決

しかし高浜原発をめぐる福井地裁の判決は、この3論点の判断で批判が出ている。基準地震動とは有識者によれば「施設の寿命中に極めてまれではあるが発生する可能性のある限界的地震動」と、定義される。地区の地震の平均像からは作られていない。事実認識に誤りがある。

さらに道路、鉄道、発電などの他のインフラ事業で、行政が企業にゼロリスクを求めた例はない。それを求めればこの種の事業は運営できなくなる。人格権についても、判決の法理を妥当とすれば、裁判所が無制限に企業のプラントを止めて財産権を無制限に侵害できることになる。原発停止による不利益を受ける人の権利も無視をしている。

大飯、高浜の判決は、一人の裁判官の片寄った見方でつくられたと言える。4月の九州電力の川内原発の差し止め請求訴訟では、原告の市民グループは同種の主張をしたが、鹿児島地裁はそれを退けた。

原子力規制委員会・規制庁は、原子力関係者からその行政活動の混乱を批判されている。しかし、今回の判決について田中俊一規制委員会委員長は「事実認識に誤りがある」と、反論した。

「自己主張の道具」に司法が使われる

こうした訴訟には、どのような人たちがかかわるのか。

原発の是非を争う裁判は以前からあった。1973年から91年まで続いた伊方原発(四国電力)訴訟は、「日本初の科学裁判」と呼ばれ、原子力利用に懐疑的な工学者や物理学者などが炉心の損傷の危険を主張した。最高裁はその危険を認めたものの、行政の判断を尊重した。つまり議論は科学的妥当性が中心になった。

しかし、その他の裁判は政治団体や反原発活動家が、訴訟を自己主張の道具とする例が目立つようになる。筆者は10年ほど前に、関西で反原発訴訟の集会を取材したことがある。福島事故の後でメディアに登場したのと同じ顔ぶれの文化人や自称研究者、弁護士が並んでいた。多くの訴訟で反原発を掲げる左派政党は関与していないが、支持者は重なっている。

当事者が同じであるために各裁判での主張も似ており、ノウハウが共有されている。高浜原発差し止め訴訟では、原発の危険性を主張するミニ映画を製作し、裁判官に見せるなど手の込んだことも行われた。

訴訟にかかわる弁護士は使命感で取り組んでいるのだろうが、「手弁当」でやるわけではない。裁判では全国から集まった原告側が分担して訴訟費用を負担している。こういう一種の集団訴訟は1960年代の公害訴訟から行われている形だ。

電力会社の「反撃」か

しかし裁判という手段で、原子力・エネルギー政策の転換が起こるとは思えない。行政訴訟は国による権利侵害を妨げる趣旨の制度である。原発の改廃は行政手続きの中で主張されるのが筋だ。そして原発の稼働が人権を侵害するとも思えない。行政上の解決の努力をせずに、司法で行おうとするのはピントがずれている。

そしてこの種の裁判は無意味だ。福井地裁の2例が例外的な判断で、基本的にこの種の訴訟は、被告の電力会社・国の方が通る。それは妥当なことで、行政組織に比べて、裁判所にその判断をする権限、能力があるかは疑問だからだ。普通の行政訴訟では、行政による一次審査の判断を尊重する。裁判所が常識的な判断をすれば、稼働の差し止め、廃炉を認める判決は出ないだろう。

また当事者も判決をそれほど重視していない。関西電力は大飯、高浜原発の差し止めを認めた福井地裁の決定の取り消しを求める訴訟を申し立てている。そして規制委による審査は並行して進める意向だ。

ただしこの訴訟で再稼動が遅れる可能性がある。関電高浜原発は、原子力規制委員会の新規制基準をめぐり「原子炉設置変更許可の適合性審査」に合格しており、今年11月の再稼動を目指してきた。遅れれば代替の燃料費で関電に、そして利用する消費者に負担が加わってしまう。

興味深い動きがある。電力会社はこれまで、こうした反原発訴訟に沈黙していたが、九州電力はある考えを示した。今年4月に結果が出た川内原発をめぐる訴訟では、申立人23人のうち10人程度が申請を取り下げた。九電は本訴で原告の市民団体側が敗訴した場合に、再稼働が遅れたことで「1日5億5400万円の損害を被る」として、地裁に申立人に賠償に備えた「妥当な金額」の担保金を積み立てることを求めた。それを警戒し、訴訟から下りる人がいた。損害を被る電力会社にとって当然の主張であろう。

社会のメリットが乏しい裁判

原発停止による損害は全電力利用者が被り、日本経済に損害を与える。国論が割れる中で、原発停止により損害を受ける人も相当いる。代替策のない批判や妨害は社会に混乱だけを招く。裁判制度を使い権利を主張することは国民に認められた権利だ。とはいえ一連の反原発の訴訟は、原告と弁護士の満足感は満たされるだろうが、社会的なメリットは少ない。

最近、ばかばかしい問題で、訴訟騒ぎを起こす人が増えている。

自称ジャーナリストの上杉隆氏は、自分が誤った情報を大量に拡散しているにもかかわらず他人の言論活動に対して訴訟と内容証明を乱発し、言論界の迷惑になっている。(池田信夫氏記事「上杉隆は嘘つきである」)

民主党の小西洋之参議院議員は、フェイスブックで「クイズ王(小西氏のあだ名)が、官僚時代に人事に不満を持ってすねた」という趣旨の文章を書き込んだ大手新聞の論説委員を訴えた。その記者の行為は軽率であるが、公人が税金からの俸給を使って訴えることではなかろう。小西氏は今、大変な批判を受けている。記者を嫌がらせのために訴える「スラップ訴訟」は言論の自由を脅かすとして、欧米では社会的に糾弾される行為だ。また彼は安倍首相にストーカーに見える暴言を繰り返している。それなのに他人を訴える矛盾した行為のためだ。(私のコラム「ネット炎上中の小西洋之民主党議員の姿から考える」)

ネットで嘘をついたと、批判され、嘲笑された精神科医の香山リカ氏は、今、ツイッター上で、批判者に裁判を起こすと騒いでいる。

これらの例示した3人は、本業の活動が優れているとは言いがたい人だし、行動が他人に迷惑を与えている。そして彼らが示すように、自分の活動の問題をさしおいて、権利を過剰に主張する風潮が強まっているようだ。その流れの中に反原発訴訟もあるように、筆者には思える。

裁判を使って、社会で騒動を起こす、政治主張をする行為は、あまり意味があるとも、社会に役立つとも思えない。東京地裁の民事部では今、裁判官の抱える訴訟件数が300-400だそうだ。あまりにも多すぎるが、その中には不必要なものも多いだろう。訴訟の乱発によって、本当に必要な司法手続きが妨害されている。そして、賢明な人の多い日本の世論は、こうした人らの意図を見破り、冷ややかな目で見つめることが多い。

反原発訴訟も無意味なものに思える。何のために行う裁判か、筆者には分からない。こうした訴訟にかかわる人たちには、自省が求められるのではないか。

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