大阪都構想の投票結果は対立を煽るよりポジティブな話を

都構想の住民投票の結果について、「属性」による粗い分析が時には大きくマトを外してしまい、対立を煽るだけの結果になってしまうことから、「どう理解していけば前に進むのか」を我々は考えるべきだという趣旨の記事を書いています。 

第一回である前回はこちら。前回部分も結構面白いと思うので、もしよろしければそちらからどうぞ。 

2・粗い分析で対立を煽るより「実感」からのポジティブな話を

というわけで、粗い分析で対立を煽るより、あえて「実感」からのポジティブな話を・・・というコンセプトで今回の投票結果をまとめると、

今回の問題は、そもそも票数的にほぼ互角だった上に、

「反対派」の中にも今のままでいいとは思ってないが、しかし橋下・維新の今回の構想には反対するという人が多くいる

 ことから、この問題については、

「何らかの改革が必要ということはほぼ全員が考えている。しかし、誰がどうやってやるか?については色んな意見がある」

 という状況なんだという風に理解するのが良いのだろうと思います。アカデミックな専門家以外が今後を考えるにあたっては、これ以上「分割」し始めてもあんまり良いことないんじゃないかと。

また、今回は「反対派側」も、推進側に対抗するために、

・「そういう改革は都構想じゃなくてもできる」

・本来我々はもっとラディカルな道州制に向かうべきで、都構想なんて中途半端である

といったような空手形を切りまくっており、これがちゃんと回収される状況になるのならば、橋下維新的な存在が「やりすぎ」てしまう部分を柔らかく受け止めつつ、「本当に必要な改革」は実現できる・・・という情勢に持っていける可能性があります。

橋下氏が「敗戦会見」で、嫌われても論点を明確化するようなリーダーはどうしても必要だったが、しかしそういう存在はワンポイントリリーフであるべきだ、これからは敵を作らないタイプのリーダーが前に進めるべき時だ、というようなことを言っていて私はかなり感動してしまいました。

橋下氏が嫌いな人は、橋下氏やその周囲にいる人間を徹底的にゲスなエゴの塊のように理解する傾向がありますが、今の日本において彼のような立場にある人が陥りがちな難しい状況を考えると、彼の上記の言葉だけは、一度虚心で受け止めて次に活かして欲しいと思っています。

何もせずにただ衰退するのが嫌だという人が多くいる状況の中で、なんとか改革を形にしたいと願う人間は、多少なりとも荒っぽくならざるを得ない(特に日本のような現状維持の惰性が強力な社会においては)。そしてその時に「橋下氏のゲスなエゴ」のように見えるものは、実は「あなたが生きている世界の見せかけの安定の裏に弾き出された無理」が噴出しているだけでもあるのです。

彼らとは違う良識的なやり方で、しかしちゃんと前向きな変革を実現していく情勢を作れた時に初めて、あなたは橋下氏がゲスだと嘲笑う資格を得ると言えます(でも多分その時期までなったら彼への適切な敬意も湧いてくると思いますが)。

「絶対反対」になってた70代のご老人だって、「大阪がこのまま沈むだけやったらアカンというのはワシも同意しとる!」ぐらいの浪花節回路にちゃんと接続できれば前向きになれる可能性だってあるわけですし、橋下氏が起点となって明確化した論点を、ちゃんと前向きに取り入れることができるかどうかが、「勝利者」に今後厳しく問われる状況になっていくでしょう。

で、今後どういう「ゴール」が考えられるのかについて、随分前から私は「細雪的ゴール」が実現したらいいなあと思っています。細雪?まあ詳細は最後まで読んでいただければと。

その前にちょっとだけいつもやってる自己紹介を、色んな人にシツコイと言われながらもするんですが、私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

そのプロセスの中では、その「社会的にキレイな形」の外側にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラをどうぞ。)

で、その遍歴的に結論的に考えるようになった「あるべきゴール」は、結局この「対立」は果てしなく続いて行くしかないが、続くに従って「環境条件」が変わってくるので、幕末期に水と油のような性質の違いを持っていた薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結んだように、「適切な新しい連携」が生まれてくる情勢になるだろう(そこまで行くには対立し続けるしか無いが、いざという時の連携についてはみんなが考えていけるようにしよう)ということを考えています。

詳しくは、投票前に書いた記事↓をお読み頂きたいのですが、

keizokuramoto.hatenablog.com

アメリカ一極支配が緩んでくるここ何年かの世界の中で、昔なら「市場原理主義」vs「アンチ市場主義」は「お互い物凄く極端なこと」を言わざるを得ない状況だったのが、徐々に「本当の経済合理性」を両派の合意で実現していける情勢に近づいて来ています。

「市場側」が言うことは、5年前だともっと極端で、日本ならではの優秀性の確保伸長といった視点が全くない「グローバリズムの威を借るキツネ」みたいな言説になりがちでしたが、最近は世界的な情勢変化もあり、また「派手な旗を立てなきゃいけない商売事情がある”論客”サン」たちとは違う「多くの普通の働き手」の間に「良識的な共有感」が出てきているので、逆に物凄く「アンチ市場」なことを言う論客の方が徐々に歴史的使命を終えつつある情勢になってきている。

そういう「全体的な歴史の流れ」を考えると、過去10年「どちらかの極論」に走れずにグダグダやってきた我が国ならではの、

てめーら、日本は果てしなく何も決められずに沈んでいく終わった国だと思ってただろ!?

しかし、これぞ我ら一子相伝の深謀遠慮の『策』なのだッ!

これから「死中に活を求める」という「知恵を超えた智慧の力」を見せてやるぜッ!

的な連携を生み出していける可能性があるということです。

つまり、韓国やシンガポールやアメリカのような、「狭義のグローバリズムに直接フィットする存在だけを伸ばして他をなぎ倒してしまった国」にはできないような、「最先端性と底辺の安定性を両立する良識的な市場主義」の実現においてトップランナーどころか世界の希望になれる可能性がある。

インテリのエリートが全権を握ってザクザク切り回せる国では頭が良すぎて決して実現できなかったレベルでの、社会の末端まで本能的に動員できる最適連携の実現が、目の前まで来ているわけですよ。過去10年どっちつかずだったからこそ踏み込める領域がある。

「人知」的な属性分析が、ホリスティックなビッグデータ分析に飲み込まれていくような時代の中で、日本人が捨てずにグズグズしていた優柔不断さの奥にある力が、「割り切りが良すぎてしまったことによって取り返しが付かなくなった欧米文明」を根底から補完する可能性を生み出すわけです。

で、そのために必要なゴールが、歴史的なタイミングとして徐々に近づいている「細雪的な調和」だなあと思っているわけです。 ではいよいよ次回、「細雪的調和」の歴史的タイミングについて述べます。

今回の一連の記事の全体としてのメッセージは、一枚絵にするとこういう感じです(クリックで拡大します)

150520_sasame

アゴラでは文字数限界が来ているので、分割掲載されています。続きを一気読みしたい方はブログでどうぞ↓

keizokuramoto.hatenablog.com

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倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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