池上彰氏の「砂川判決」論への疑問

週刊文春のコラム「池上彰のそこからですか!?」は、旬の話題の基本についてわかりやすく解説していて役立つことが少なくないが、時々、気に入らない見解が出て不満がある。

7月2日号の<「砂川判決」とは何か>もそうだ。同判決は1950年代に米軍の駐留が違憲かどうかを争った裁判。当時の最高裁が行ったもので、池上氏は米軍の駐留を認めるための「実に政治的な判決だった」と断じている。

最高裁は「内閣や国会の政治的判断には裁判所は口を出すべきではない」と主張したが、裁判所には本来「違憲立法審査権」がある。最高裁が口を出すのは当然なのに、その判断から逃げた、と池上氏はいう。

私も池上氏に賛成だ。が、問題はその後である。砂川判決では「憲法9条は戦力の保持を禁じているが、主権国として固有の自衛権は否定されない。国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとるのは当然」としている。

政府・自民党は「だから集団的自衛権も認められる」としている。だが、池上氏は「砂川判決のいう自衛権とは、明らかに個別的自衛権のことで、歴代の内閣も集団的自衛権は認めていなかった。今になって集団的自衛権を主張するのはいささか無理がある」と批判する。

ところが、政府・自民党の見解を完全否定しているわけでもない。

ただし、最高裁判決は、日本の「存立を全うするために必要な自衛の措置をとること」を認めています。そこで、高村正彦・自民党副総裁は「必要な自衛の措置」がどのようなものかは、政府が判断すると主張するのです。さて、あなたの判断は?

池上氏は読者にゲタを預けて、自身の最終判断を示さない。これってどこか姑息だなあ、と感じるのは私だけだろうか。

砂川判決を「実に政治的な判決だった」と断ずる池上氏は、実は憲法9条を厳密に適用すれば、集団的自衛権どころか個別的自衛権も認められないと、うすうす感じているのではないか。つまり自衛隊の存在自体が違憲なのだと。

私はそう思っている。だから、砂川判決を「実に政治的な判決だ」という池上氏に同意するのである。

だが、池上氏はわかっている。国民の9割前後が自衛隊の存在を認めている現実を。個別的自衛権まで否定したら、考え方が過激すぎて穏健な現実路線の読者から反発を食らう恐れ十分。で、自衛隊が違憲だなどとは言わない。

もう1つ、日米安保条約も多くの国民は必要だと感じている。池上氏もおそらく日米安保条約を破棄すべきだとは言わないだろう。

だが、日米安保条約は集団的自衛権に基づいて結ばれている。然り、日本は1951年に旧・日米安保条約が結ばれたときから集団的自衛権を認めているのである。

ただし、通常の安保条約では共同で共通の敵に軍事的に対応するのに対して、日米安保条約では米国は日本(の国土)を守る義務があるが、日本は米国(の国土)を守らなくてもいいことになっている。片務的であり、双務的でない。

安倍政権は今回の安保法案で、「自衛のための武力行使の新3要件」という相当に厳しい条件をつけて、少しだけ双務的にした。

なぜか。中国の軍事力増強、米国の軍事予算の削減など日本を取り巻く安保情勢がそれだけ厳しくなっているからだ。時代の変化に合わせて「必要な自衛措置の判断を政府(安倍政権)がする」という高村副総裁の考え方は適切、妥当ではないか。

中国やアジア、中東などの情勢変化にも詳しい池上氏も高村氏と重なる認識があるはずで、「個別的だとか、集団的だとか細かいところを論じても仕方がないな」と感じて、判断を留保したのではないか。

以上は邪推かも知れない。しかし、池上氏はじめ穏健な、悪く言えばエエカッコシーの評論家に言いたいのは、自衛隊の存在を認めた以上、集団的自衛権が違憲だと断ずるのは中途半端、欺瞞的だということだ。

大切なのは日本の安全保障を確保することである。国際環境の変化によって個別的、集団的を問わず、最適の安保体制をとるのは当然のことだ。それが憲法9条に抵触するならば、憲法を改正する。それが適切な判断だ。私は速やかに憲法改正すべきだ、と思っている。

だが、それには3分の2以上の国会議員の同意が必要であり、日本がキナ臭くなることを恐れる国民の多くも憲法改正には慎重だ。集団的自衛権の行使容認でさえ、否定的な声が多いのだから。したがって不本意ながら、当面、解釈改憲でお茶を濁すのは止むを得ない次善、三善の措置だと思っている。

政権を担う安倍首相も同様の思いだろう。「今は機が熟していない」と憲法改正に慎重になるのは無理からぬところだ。政治は世論の「空気」を読みつつ、進めるしかない。

「空気主権」国家と言われる日本ではなおさらである。池上氏の「そこからですか!?」などの論考を読んでいると、この人も空気を読むのに長けているな、と感じることが少なくない。読み終わって「もう少し、そこから先のあなたの意見を聞きたい」と思うこともしばしばである。