憲法9条は「日本の平和ブランド」か

2015年07月31日 10:34

「集団的自衛権を行使したり、憲法9条を改正したら、『戦争をしない国』として戦後70年、培ってきた日本の『平和ブランド』を手離すことになる。世界が評価してきた、そのソフトパワーを失うのは大きな損失だ」という意見がある。

日本が海外で戦争をしなかったから、世界の人々に憎まれることもなく、信頼されてきた、という理屈である。

日本は高度成長期以降、途上国などへ経済支援したり医療、教育面での数多くの支援をしたりしてきた。

しかし、軍事的な援助はほとんどして来なかった。それが「平和ブランド」として評価されているというわけだ。

確かに、戦争をしないに越したことはない。戦争をしないで済むような国家戦略を常に進めて行くことは極めて重要だ。

だが「経済・技術支援だけで、軍事支援はしない」ということが最高の評価
となるのだろうか。

なるほど勤勉で、親切で面倒見も良いという人は人から好かれ、評価される。でも、「暴漢から襲われたときは助けてくれない」という人と、「助けてくれる」人とどっちが感謝されるか、と言えば、後者だろう。

戦後のアメリカは経済・技術・医療支援と軍事支援の両方を行ってきた。だから、世界のリーダー足りえた。日本は前者だけである(それだけでも評価を受けていることは確かだが)

一方、米国は軍事支援もするが、自らの国益を追求しすぎて、イラク、アフガニスタンへの侵攻など行きすぎも目立つ。破壊的な攻撃は憎しみを生み、イスラム過激組織の反撃を食らっている。それに対して米国も反撃する。憎しみが憎しみを生む連鎖が、大きな被害を世界にもたらしている。それは改めなければならない。

過激派への攻撃に徹しているつもりでも、ゲリラ組織は善男善女の住む地域に潜み、そこから攻撃してくることが良くある。このため、テロ集団だけを攻撃しているつもりが無辜の住民を戦禍に巻き込むことがしばしば起こり、それが住民の反発と憎しみを広げる事態を発生させる。

だから、軍事行動は一切しない方がいい、というのが「平和ブランド」尊重論者の言い分だ。

「武器よ、さらば」ですべてが片付くならば、それでいい。しかし、「ISIL」のように武器を持って、勢力圏を拡張する危険なテロ集団は後を絶たない。核武装を進める北朝鮮、南シナ海、東シナ海で軍事基地の構築を広げ、すべてが自国の領海だ、と宣言する中国の存在など日本の周辺も緊張感が高まっている。

「平和ブランド」に固執し、米国の支援も要らないと宣言したら、すぐに日本の領海は危ない国々に侵入され、支配されてしまうだろう。

だから、日米安保条約は必要であり、その米国が危なくなったら、支援する集団的自衛権は必要なのである。

イザという時、助けに来てくれない同盟国を守る国はあるか。米国が圧倒的に強かった時期はいいが、中国が台頭し、米国が軍事予算を削減しようとするとき、集団的自衛権の枠組みによって米国を東アジアに引き止めて置く必要がある。

話を元へ戻すと、何もしなければ過激派テロ集団を抑えることはできず、危険な侵略国家を跋扈させてしまう。誤爆や行きすぎた行動が各地で憎しみを生んだとしても、軍事制圧を止めることはできない。軍事行動に伴う負の側面を最小限に抑えつつ、テロ集団や侵略国を抑える戦略を進めるしかない。

何もしなければ手は汚れない。「汚れた手」を覚悟しなければ、有効な政策は実現できない。「平和ブランド」という純潔にこだわるのは机上の空論であり、現状を変革する力にはならない。

もちろん、歴史上、例えばイスラム地域で侵略、軍事攻撃などの形で日本は手を汚していない。だから、米国の要請があったとしても、そこでの軍事行動は燃料補給など後方支援に徹し、軍事攻撃には参加しない、などの政略的配慮は重要だ。

外交戦略とは全体的なバランスを考えたものであり、集団的自衛権の行使を容認したり、憲法9条を改正したからと言って、いつでも軍事行動に乗り出していいということではない。軍事行動の発令はつねに極めて慎重でなければならないのは当然のことだ。

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