安倍談話を未来に活かせるか考えてみる・下――左派・まとめ編

安倍談話について、左派の人たちは村山談話が踏襲されているのにかなり憤っている(なのに喜んでいる右派もいて興味深いのだが)。中には「談話で語られた歴史観は国民的合意を得ていない」と指摘している人もいたが、首相談話が出たからと言って全国民の歴史観をそれに一致させる必要はない。左派は自分たちが「村山談話」を踏み絵にしてきたので、身から出た錆、ブーメランとなってしまったようだ。

怒れる左派を見ていてこれから心配なのは、この談話を「アメリカに対する更なる恭順」と見る左派の行方だ。日本は自らの罪を悔い改め、国際社会、特にアメリカに対する懺悔によって許しを得、安保法制によって「戦後秩序を支える先兵になる」、つまり対米従属へと進むための宣言だと危惧する人たちの登場である(ただし、左派に限らず「保守(右派)の安倍批判派」にもこの主張が見られる)。


現在、安保法制反対の旗を掲げている人たちはアメリカのやり口や価値観が気に入らない。そのアメリカに追従する安倍総理も大嫌いだ。私はTPP反対も含めて思想的には「反米保守」に分類されると思うが、それでも安保法制反対派の「反米っぷり」には「みんなそんなにアメリカが嫌いだったのか」と驚いた。

好むと好まざるとに限らず、戦後体制、現在の国際秩序を築いたのは戦勝国、特にアメリカだ。だが勝者の代償も大きく、この七十年、アメリカは朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争などを戦った。相手も殺したが、自国の兵士も多く失った。「自国の利益を守るため」というのはその通り。だがもし七十年前、日本が勝っていたら、やはり戦後体制の維持に奔走していただろう。

戦後の国際秩序を支えているのはアメリカが中心ではあっても、EU諸国やオーストラリア、カナダ、韓国、スイスなどもPKOや有志連合に参加している。国際秩序の維持に汗を流す彼らも「先兵」なのだろうか? 

これからの日本を考える際、日米の二国間関係だけで見すぎると、道を誤るいい例だろう。

アメリカと「足並みをそろえたくない」とする衝動もまた、「アメリカ的価値観の支配する戦後秩序の破壊願望」に向かいかねない。極端だと思われるだろうか。しかし安保法制反対論者の中には、護憲派でありながら「本来はアメリカに一発かますくらいの気概が必要だ」と、穏やかでない胸中を明らかにしている人もいる。もちろん悔しい気持ちは分かるが、護憲派は戦後秩序を丸ごと受け入れていると思っていたから、驚いてしまった。

なんだ、右も左も「アメリカ」をこじらせているんじゃないか、と思うのだが、一体どうやって憲法を守りながらアメリカとの距離を取るのだろうと不思議ではある。彼らは「憲法を変えてもアメリカについて行くだけだから改憲反対」「沖縄から米軍基地を追い出して憲法を抱き締める覚悟を持て」と言っている。

私は憲法を改正して集団安全保障的取り組みに日本が参加し、むしろアメリカの行きすぎは中から批判し、牽制する方が効果的ではないかと思う。軍事における国際的影響力がないのに外から「止めろ」と言って止められるわけがない。「国際社会の安定に汗を流さないくせに口を出すな。カネだけ出してろ」と言われかねないし、国際的な孤立待ったなし、という気もする。

もう一つ不思議なのは、確か安倍総理が「戦後レジームからの脱却」を唱えた時には「戦後秩序を転覆させる気か」「ポツダム宣言を受け入れて許されたんだから、敗戦国らしく大人しくしてろ」と言っていたはずの左派が、今は「アメリカのお先棒を担いで戦後秩序を守るつもりか」「許しを請うな」と言っている点だ。

左派に限らず、日本の対米観はどうもこじれている。

右派の多くは親米保守で、GHQが歴史を奪った、と言いながらアメリカよりも中韓への怒りを募らせ、日米同盟を何よりも重んじている。「GHQはうまくやったな」と思う。一方、反米保守の最右翼の反米観はもはや憎悪に近く、「鬼畜米英」を今も抱いているかのようだ。安倍政権にも批判的な向きが多く、安保法制も「米国の下請けか」と反対する人もいる(ちなみに私は反米保守度・六〇~七〇%くらいだと思うが、自己判断は難しい)。

さらに安保反対を唱える左派たちはねじれ切っている。左の中にもいろいろあるとは思う(ので本来のリベラルの人には申し訳ないのだ)が、目立っているのは「アメリカの戦争に巻き込まれるな」と言いながら、日本が二度とアメリカに立ち向かってこないよう置いて行った憲法を後生大事に抱きしめて「それで死んでもかまわない」と言い、若者も子供もそれに従えという人たちで、狂気の沙汰だ。

それはおそらく「武力による復讐」を九条という呪いで封じられ、「精神性(歴史と誇り)の回復」を「右傾化は悪である」という鍵で封じられている彼らの、反米心の行き場がないからだろう。

だが日本人がいつまでも反米をこじらせたままでは、「戦後」をこの先に進めることはできない。

それよりもこの先、日本が国際社会で「次なる戦争が起きないために」何をしていくかが重要だ。日本が国際社会、特に「アメリカに圧力を掛けられている」と感じている人たちに発信すべきは、「アメリカの支配を破壊せよ」というメッセージではない。「戦争で体制を転覆させるのではない方法で『日本的に』組み上げた価値を打ち立てる」、その姿だ。

軍事にしろ政治にしろ商売にしろ、アメリカモデルのブルドーザーのようなやり方が反撥と危惧を呼ぶのは端的に言えば、「俺たちがコツコツ大事にしてきたものを、合理性の一言でぶっ潰すな」ということだ。

そこで日本が「日本らしさ」を発揮し、うまく調整機能の役割を果たす道はあるはずだ。そのためには、アメリカ的価値観の支配=グローバリズムに対し、日本は自由と民主主義という普遍的価値を軸にしながらも、「日本らしさ」というローカリズムを失ってはならない。

TPPは談話で言うところの「自由で公正で開かれたシステム」にはとても思えない(その結果、自由でも公正でもないものが生まれる可能性がある)ので、私は今の時点ではこれには反対する。他者の宗教や伝統、大事にしてきた価値や商売を強者の論理で奪おうとする動きに対し、「日本はそれを許さない」と発信することだ。

でありながら、次なる大戦を防ぐため、武力によって戦後秩序の転換に挑戦しようとするアジアの某国には「止めておけ。存在感を示したいなら別の方法があるはずだ」と釘を刺す。これは同じアジア人で、かつて国際秩序に挑戦し、敗れた経験を持つ日本人にしかできない忠告だ。

そのためには、日本国民は対米イデオロギーを克服し、フェアに歴史を眺め、軍事にもコミットし、あるべき「ど真ん中」を進んでいかなければならない。それが敗戦国の矜持というものではないだろうか。日本は、アメリカ的価値観一辺倒では潰されてしまう価値を守り育てていく旗を掲げればいい。

談話は出て終わりではない。日本が左右の不毛な争いを超えて戦後を克服する第一歩としたい。