どうすれば戦争がなくせるか?

「国会の前で『戦争ハンターイ』と叫び、日本だけが『平和憲法』を護持すれば、夢のような平和が世界に訪れ、多くの人々が辛酸を舐めるような事が今後は一切なくなる」と本気で考えている人が、この世界のどこかにいるとはまさか思わない。しかし、あらゆる人たちが「どうすれば戦争がなくなるか」を考え続け、その為に行動する事は勿論必要だ。だから、今日はもう一度、その事を基本から真面目に考えてみたい。

そもそも、この世界の事は、最後は物理的な力が決める。貴方が道で誰かに殴られて財布を盗られれば、多くの場合泣き寝入りをせざるを得ないし、目の前で誰かにピシャッとドアを閉められれば、どんなに入りたくてもその部屋の中には入れない。貴方が電車の中で女性に絡んでいる酔漢を見つけて、義侠心に駆られて注意しても、そいつのほうが腕力があって貴方を突き飛ばせば、貴方が怪我をするだけで彼女は救えない。世の中の事が癪に障って、貴方があたりのものを滅茶苦茶に壊せば、警察官が貴方を取り押さえるし、「不法逮捕だ」と言って暴れてみても、警察官はより強く貴方の腕を捩じあげるだけだ。

かつて民主主義が一般化する前には、世の中の歪みは暴力でしか正せないと考えられてきた。一握りの人たちが富と権力を握って大多数の人たちを搾取している状況下では、農民や労働者、それに彼等に同情的な兵士たちを糾合すれば暴力によって共産革命を成就させる事は十分可能だと考えられていたし、現実にその方法によってソビエト連邦や中華人民共和国が成立した。

一方、巨大な帆船や大砲、小銃などの近代兵器は、「未開の国に行けば金銀やその他の貴重な商品がいくらでも強奪できる」という事を多くの人たちに知らしめ、現実にそのような強盗行為が日常茶飯事に行われたし、産業革命の後は、「未開の国を武力で屈服させれば、その国を植民地にし、自国で生産した綿布などの商品を売り捌けるし、安い賃金でその国の人たちをこき使えば、種々の一次産品等が安価に入手できる」と考えた先進諸国が、世界中で植民地獲得競争に狂奔した。

世界は、現在同様、多くの独立した「国家」から成り立っていたので、上記のような流れは必然的に「国家間の暴力と暴力の衝突」即ち「戦争」をもたらし、これが遂には第一次、第二次の世界大戦を引き起こした。

困った事に、人間という種族、特に男性は、生まれながらにして暴力(勇ましさ)を好み、暴力によって相手を屈服させる事に憧れるという性向を持っている。それ故、古来より、全ての戦争が美化されてきたし、そこで活躍した人たちが英雄としてもてはやされてきた。

しかし、その間に驚くべきスピードで起こった技術革新は、「戦争」というものの様相を一変させた。第一次世界大戦で、既に欧州の人たちは「国家を挙げた総力戦の悲惨さと経済的なバカバカしさ」を痛感し、恒久平和の為の方策を模索し始めていたが、各国が利己的な経済的利益を優先した為に、第二次世界大戦の勃発を防げなかった。

第二次世界大戦の末期には、遂に人類を滅亡にまで追い込みかねない「核兵器」が使われるに至り、更にその後は、生物兵器(遺伝子組み換え技術による凶悪ウィルス)や化学兵器(時限自爆装置付きのサリンガス・カプセル)によって、異常な体制下に置かれた小国(例えば北朝鮮)や少数のテロリスト集団(例えばアルカイダやボコハラム)の手でさえも、いとも簡単に大国を滅亡させる可能性がある事が分かってきた。こうなると、もはや事態は待った無しの状態となったと言ってよい。

今、最も重要な事は
1)大国間の戦争は何としても回避せねばならない。
2)暴力的な方法によって世界を変えようとする如何なる試みも、決して許してはならない。
という二つの事である。

要するに、「大小に関わらず、危険な冒険主義者の野望の芽は、早い段階で発見して摘み取る」事が、我々や我々の子孫たちが生き延びる為に、今やどうしても必要だという事だ。その為には、先ず、何故「国家間の戦争」や「特定地域での暴力的な対立」が起こるかを考える必要があるが、私の見るところでは、その原因は下記の三つから成り立っていると思う。

1)民族や宗教の対立(多くの場合「過去の怨念」が原因となる。モスリムとキリスト教、ユダヤ教の対立、モスリム内でのスンニ派とシーア派の対立はこの典型)。
2)経済的利害の対立(植民地獲得競争はもはや過去のものになったが、なお経済的利害が紛争の原因になる可能性は残っている。資源の確保を狙っての領土紛争はその典型例)。
3)「指導者は自分の地位を守る事を全てに優先させる可能性がある」という悲しい現実(為政者は、国民の人気を得る為に、武力を背景とした対外膨張主義を取ることが多いし、独裁者は「政敵に殺されるぐらいなら、外国に戦争を仕掛けて大惨事を引き起こした方がマシ」と考える)。

以下、順不同で、上記のそれぞれに対する対応策を考えてみたい。

1)究極の目標は、国家というものをなくし、「世界連邦国家」を建設する事。かつて、核兵器の脅威を痛感したアインシュタインや湯川秀樹も本気でこの事を提案した。こういう考えを非現実的と揶揄する人たちもいるが、最終目標としては常に堅持すべき考えであると思う。具体的には、如何なる場合でも「国家主義的な考え」が拡散する事を抑え、「一歩でも国家を超える動き」を支持していく事が必要だ。

2)人間が根源的に持つ「闘争心」や「相手を制圧したいという欲求」はスポーツ振興で吸収する。「残虐性」はメディアに自粛義務を促すことによって抑え込む。あらゆる国で暴力を否定するキャンペーンを継続的に行い、その成果を競い合うべきだ。

3)あらゆるレベルでの宗教指導者の交流を世界規模で促進し、お互いに過去を許し合い、信条の違いを認め合い、併せて、将来の争いを根絶する為のルールを定める「共同宣言」を、出来るだけ早い時点で発表するべきだ。

4)「領土問題」は今なお国際紛争の最大要因となっている。現在の国境線の多くは、植民地獲得競争時代の名残であり、客観的に見て理不尽なものが数多くあるが、主観的には誰にでもそれなりの言い分がある。一方、あらゆる国民は自国の政府がどんな妥協をするのも許さないのが常なので、双方が如何に歴史的な正当性を強調し、或いは友好的な解決に努力しようとも、結局は議論がいつまでも平行線を辿るのが普通である。

従って、当面は「領土問題の解決には、領土や国境線の意味が希薄になる時代の到来を待つしかない」と割り切る事が必要だ。具体的には、「現状維持(相手方の実効支配の現実を武力で変更しようとする事を許さない)」を「国際社会の当面の合意事項」として確認し、お互いにこの合意事項を遵守する方向で努力を積み重ねるしかないと考える。

5)「民族自決の原則」即ち「一つの民族が、十分な経済的基盤があるにもかかわらず、自分たちの意思に反して他民族の統治権の下に置かれる事はあってはならない」という原則については、すべての国がこれに合意する方向で真摯に協議すべきだ。

しかし、現状を見ると、全ての国がこの原則を受け入れる事は残念ながらあり得ないように思われるので、とりあえずは国連の下に「民族自決促進委員会」を設置し、各地での紛争の調停に当たらせるしかない。この委員会の調停には強制力はないが、分離独立運動の指導者たちは、少なくとも自らの自由と安全については、この委員会の庇護が受けられるものとするべきだ。

6)世界経済の不均衡や不安定は、一部の国の国民に甚だしい疎外感を持たせ、その国の指導者を突き上げて「対外冒険主義」に走らせる危険性を惹起する。従って、世界経済は、出来る限り「国家の規制」や「ブロック経済体制」を廃し、国境を越えて市場原理が働く方向に進める必要があり、この為に、先進諸国の政府や世界経済の主導権を握る多国籍企業体などが、一致協力して努力を傾注すべきである(完全に市場原理が働けば、同一レベルの生産性を持つ労働者は、国籍に関係なく同一レベルの賃金が得られることになり、世界規模での格差の縮小に貢献する)。

但し、資本の集中が競争を阻害しないよう、世界規模で独占禁止法規を整備し、また、行き過ぎたマネーゲームが生産活動や流通を不安定にしたり、格差を拡大したりしないように、金融資本には世界規模で妥当な規制を課すべきである。更に、各国の規制の違いを利用した不当な脱税には、各国が協力して厳罰で臨むべきである。

7)国家、特に独裁国家の指導者は、自らの権力基盤を堅持する為に、自国の軍隊を増強する傾向があり、このような指導者は、自国の経済状況が悪くなると、国民の注意を外にそらす為に「対外冒険主義」に走る可能性がある。これを牽制する為には、地域ごとの安全保障体制が整備され、如何なる地域においても、軍事力の均衡が保たれるようにする必要がある。この事こそが、独裁的指導者に「対外冒険主義」の誘惑を諦めさせる、唯一最良の方策であると考えざるを得ない。

8)一部の国のみが核兵器を所有している現状は決してフェアとは言えないが、無秩序な核拡散を許す事に比べれば危険が少ないので、許容せざるを得ない。従って、核を持たない国は、それぞれに核を持つ国の核戦力の傘の下に入るしかない。また、今後生み出される可能性のある危険な生物兵器や化学兵器の研究開発は、常に国際機関の厳重な監視体制の下におかれ、少しでもその萌芽があれば、直ちにそれを摘み取るべきである。

9)各国は主義主張を越えて緊密に連携し、「如何なるテロ活動も絶対に許さない国際体制」を固めるべきである。この為、個人のプライバシーが若干侵害される事があっても、やむを得ないと割り切らざるを得ない。但し、「テロ組織の壊滅」と「アムネスティー」は若干相克する局面がありうるので、このバランスをとる為の国際的な監視組織が作られる必要もあるかもしれない。