外から見る安保関連法案

安保関連法案が可決成立しました。久々に国内が揺れました。国会も揺れました。国会を通過することは数の論理を知り尽くしている議員にとっては自明の理でしたが必死の時間延ばし作戦に出たのは反対する国民と熱い汗をかき、イデオロギーの共有をしたかったのでしょうか?

不思議とメディアの画像に映るのは反対派のデモや集会ばかりで賛成派の声や活動はほとんど見かけることがありませんでした。これはマスコミの偏重だったと言ってよいでしょう。ただ、賛成派が無理して行動に移す必要がなかったということはありますが。

外から見る集団的自衛権とは何なのか、一歩下がって私なりのピクチャーを描いてみました。

まずは今の憲法であります。これは日本が主体性をもって作った憲法ではなく、非常事態に迫られて出来たものであります。歴史を紐解けば戦前首相をした近衛文麿がマッカーサーからの信頼を得てアチソン政治顧問の指導を受けながらその策定作業にかかります。ところが内大臣府だった近衛に対して時の首相、幣原喜重郎がこれは政府でやる、と言い出し、松本烝治国務大臣にそれをやらせたことから歯車がずれます。その後、松本案はマッカーサーに否定され、アメリカが超短時間で作り上げた憲法が公布されたわけです。

当時、雨後のタケノコのように出た数々の日本発の憲法草案が全て否定されたのはもたつき、まとめられない日本政府に対して諸外国(特にソ連)からの突き上げで天皇制存続が維持出来なくなる可能性もあったため、マッカーサー草案が生まれたのであります。この部分が我々の憲法認識からは若干落ちている気がします。

一方、アメリカが主導した憲法は日本を無力化することに焦点を絞っています。結果としてあの戦争から間もない時期に於いて松本大臣も吉田茂にとっても寝耳に水のマッカーサー草案は受け入れざるを得なかったのです。しかし、戦争で疲弊していた日本、そして民主主義への振り戻しが進む日本に於いてこの憲法は自然に溶け込んだのであります。

それから70年、世界も世の中も大きく変わりました。まず、国家の定義が少しずつ変わってきています。EUに見られるのような進歩的共存体制や北米などのように一定の経済圏を作り上げるという発想であります。つまり、国家の国境の定義が変わってきたのです。

日本も貿易をスムーズにするため、世界各国と協力関係を結び、国と国がリンクした輪を作りつつあります。私はこれを国境のバーが下がる、と表現していますが、特にそれを推し進めたのは90年代後半に世間一般に広く知られるようになったグローバリゼーションであります。

グローバリゼーションは一般には経済関係に力点が置かれると思われますが、文化、社会、政治、人(査証)の政策を含め、きわめて広い範囲に及んでいます。これは国家のエリアは国境という物理的な線だけでは全てを判断できない時代になってきたともいえるのです。

残念ながら安倍首相はこの部分の説明が下手でした。その為、余計な疑念と不信が渦巻いてしまいました。前の戦争のイメージから赤紙の召集令状が来る世界にまた戻す気か、という論調が目についたし、戦争法案の「戦争」の部分だけが異様に拡大解釈された気もします。

本法案は自衛隊という国を守る専門家集団の行動範囲を規定するものである、というまず大前提(防波堤)をもっと押し出すべきだったのではないでしょうか?国防のプロ集団の安全認識と全国民のそれとは雲泥の認識の差があります。そこが今一つ、不明瞭だったのではないかと思います。

安保関連法案が違憲であるか、という議論については学者の論争は肝心な点を落としています。現在の憲法そのものが変わりゆく世界と日本に於いてどれだけ整合性があるのか、という議論に踏み込んでおらず、既存の憲法解釈に留まっています。学者は与えられた命題についての議論はその専門としますが、私は「憲法の立ち位置論」を同時並行に進めるべきだったと思います。そして、学者が得意とする第9条の字ずらの解釈に囚われるのではなく、日本を取り巻く70年間の変遷を含めた解釈論が必要だったのではないでしょうか?

最後にもう一つ。欧米には28カ国も参加するNATO(北大西洋条約機構)があり、地域をがっちり守る仕組みがあります。日本は隣国のトップと話をするのさえ大変なプロセスを踏まねばなりません。この点に於いて日本はあまりにも無防備で貧弱あることはしっかり認識するべきだと思います。

賛成、反対の平行線だった今回の安保改正法案は切り口を変えたもう少し違った意見が出てもよかった気がします。頭ごなしの賛成、反対論がやけに目についたのが私の印象であります。

今日はこのぐらいにしておきましょう。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人 9月19日付より