学校は勉強するところではない

2015年10月03日 20:03

学校は勉強するところではない「日本教」を教えるところである
公立小学校の教員になって、1年半。私の常識は覆されつづけてきた。覆されたのは、「サラリーマン・いち市民としてもっていた常識」ともいえる。

その中でもっとも大きな転覆は、「学校は勉強するところではない」ということである。もうすこしわかりやすくいえば、「学力を向上させるところではない」といえばよいだろうか。事実かどうかは別として学力低下がこれほどに騒がれる昨今。「学校は学力向上の場ではない」といわれると、いったいなにを言っているのかと訝しがられるだろう。
enpitsu

いつか詳しく述べたいと思っているが、学校のカリキュラムは学力向上などまったく興味がない。興味があるのは、集団行動である。言いかえれば、山本七平のいう「日本教の布教」といってもよい。

みんなが茫洋とだが姿勢よく授業を受けているから、自分も受けるのが大事
つまらなかろうが中身がなかろうが、子どもを静止させておける授業がよい授業とされているし、保護者もそのような授業をよい授業と評価する傾向がある。その内容如何によらず、私語や忘れ物といった規律を乱す行為が最低の行為なのである。勉強ができるかどうかなどは二の次なのだ。みんなが茫洋とだが姿勢よく授業を受けているから、自分も受ける。これが大事なのである。(そういう意味では、中室牧子氏の「学力の経済学」は日本の学校の現状をかなりとりちがえているといえる)

宿題もそうである。正直、小学校も高学年になれば、クラス内の学力差は絶望的になり、一律の宿題など無意味である。できる子どもには簡単すぎる苦行だし、低学年程度の学力しかない子どもには理解不能だからである。しかし、それをやってくること自体に意味がある。みんながやっているから。

このように考えると、大阪で大惨事となった10段ピラミッド倒壊事件も理解ができる。「みんながやっているからやる」のである。その思考様式と態度を涵養するのが学校である。危険性なんて関係ない。そして、その姿に保護者は感動してしまうから問題は厄介である。

「みんながやるからぼくもやる」この姿勢が日本社会ではなににもまして尊いのである。「友がいくからおれもいく」という特攻隊の姿に感動してしまう時代となんらかわっていないのだ。

でも、それが日本の安定におおいに貢献しているかもしれない
しかし、これが日本社会の安定に大きな役割を果たしているのも事実である。まず、「みんながどう考えるのか」を第一に考えるようになるからだ。このような教育が日本の治安のよさや、サービスの品質の(過剰な)高さ、従業員の従順さを担保している面もひじょうに大きいと思われる。

もちろんトレードオフはあって、個性を徹底的に殺す。わたしとて子どもたちの「個性」を伸ばしたい。しかし、トレードオフなので、この点をしっかり認識して、個性の教育論は再検討した方がよい。

会社とて、「とがった人材・個性をもった人材求む」といいつつ、「でも社内の空気は読んでね」と無理難題を学生や教育機関に求めているきらいもある。

この日本的呪縛から逃れるには、国立や私立の小中学校では無理だろう。学習指導要領からの束縛や、スカウトしてくる大半の人材は公立の教員なので、大差はない。強いて言えばインターにいれるという選択肢がある。

ただ、この「日本教」を学ばないという選択肢は、学校教育がもたらす「没個性による日本社会の安定性」にある意味フリーライドしているともいえる。個性重視に舵をきっても問題は深刻だと思う。

アゴラの読者には、バウチャー制を支持する方も多いと思うが、この公教育の役割をしっかりと見ないと、道を見謝るだろう。在日外国人が微増の現状でも「日本教」の維持が難しくなってきているのだから。

もちろん、わたしは「日本教」を捨てて、個性を生かし、多様な人々が共生する社会を望んでいるのだが、それには社会の側の覚悟もおおいに必要だろう。

中沢 良平(小学校教諭)

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