学校は教育に向いていない

2015年10月05日 01:01
監獄の誕生―監視と処罰

アゴラで中沢良平さんの「学校は勉強するところではない」という記事が話題を読んでいるので、ちょっと補足しておこう。

学校が本質的には規律=訓練の装置だという指摘は、フーコー以来ありふれたもので、日本に特有の事情ではない。というより日本の公立学校は、ヨーロッパをまねて明治時代につくられたものだ。それまでも日本には水準の高い塾や寺子屋があったが、それは職業的なスキルを学ぶ少人数の教育の場であり、学校のように集団的な規律をたたき込む軍事的な訓練の場ではなかった。

先進国のどこでも「荒れる学校」は問題になっている。特にアメリカはひどく、ニューヨークでは高校の校舎に金属探知機が設置されている。大学も、日本でほめられている一流大学は同世代の1%以下の例外で、大部分のカレッジでは先日のオレゴン州の銃撃のような事件は珍しくない。ただ日本に特有の事情は、中沢さんもいうように、団体行動への同調圧力が極端に強いことだろう。

要するに、学校という大量生産型の施設は、教育という個人差の大きいサービスには向いていないのだ。それより塾のような少人数で個別に指導できるしくみが望ましいが、どこの国でも高学歴化が進む一方だ。高度な知識が必要になると、学歴はジョブ・シグナリングの装置として重要になるからだ。

このように学校は、近代初期の軍事的な訓練装置としての機能から、子供を選別する装置に変わりつつある。教育には、学校という入れ物はほとんど必要ない。特に文系では、インターネットがあれば、大教室授業で出席を取るといった昔ながらのやり方はまったく無意味だ。

これをどうするかは、むずかしい問題だ。特に改革を行なうのが官僚や大学の教師などの高学歴の人々なので、自分の社会的地位の根拠になっている学歴を否定することができない。教育内容は塾でもインターネットでも代替できるが、シグナリング機能は代替しにくい。早稲田のように教育内容の劣化している大学でも、ブランド価値は保たれるからだ。

逆にいうと、これから日本で重要になるL型(ローカル)産業として、教育には大きなイノベーションの余地がある。アゴラでも経済塾や読書塾などささやかな試みをしているが、もっと大資本を投入して、斬新な教育機関をつくるベンチャー企業が出てきてもいいだろう。

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池田 信夫
アゴラ研究所所長 SBI大学院大学客員教授 学術博士(慶應義塾大学)

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