天に任せる

『企業家倶楽部』15年10月号に「リラックスもトップの条件」というある大学教授の記事がありましたが、その中で「売り上げが大幅に落ちてどうしようと思った時にも私は寝ましたねぇ」というジャパネットたかた創業者の髙田明さんの言葉、及び「私も楽天的な性格なのか、とにかく眠れないということは一日もなかったですね」というエイチ・アイ・エス創業者の澤田秀雄さんの言葉が紹介されていました。


私に言わせれば「リラックスもトップの条件」というよりも、「健康維持のための努力をする」ということが、その条件の一つだろうと思っています。社員そしてその家族の将来は、トップの双肩にかかっています。健康でなければ、その重責は果たせません。私も色々な判断業務に毎日追われ、多忙を極めている身であります。それだけに時々の判断間違いを如何に最小に抑え行くかを日々考え続けており、そのためにはやはり一つに眠りに拘るということが大事だと思います。

森鴎外いわく「人間は二時間寝れば沢山だ」ということですが、流石に2時間で十分とは私には思えません。脳の働き具合や健康維持という観点から科学的に考えても、やはり2時間と言わず人間は適度な睡眠をとり身体を休めた方が絶対に良いと思います。また「ナポレオン、エジソンは4時間しか眠らなかったという説」もあるようで、私自身も4時間半程度の睡眠です。私などは、何時に寝ても大体4時間ぐらい経つと目が覚めるのですが、それは長年の習慣になっていて熟睡できているようです。

健康維持のため徹底して睡眠に拘りその密度を上げるといった場合、先ず第一に眠れぬ程に悩まぬ生き方をして行かねばなりません。私は常々ストレスなどは余り感じませんが、それはずっと人間学を勉強し続けているが故だとも思っています。但し仮にそうした生き方をしていても時に、事が非常に重大で寝られないこともありましょう。そうしたケースでは単純に、睡眠導入剤を飲んで効率よく眠れれば、それで良いのだろうと思います。

根本的には上記の通り、眠れぬ程に悩むこと自体を止めなければなりません。そのためには、「天に任せる」「運に任せる」ということだと思います。私自身あらゆる判断に当たってこれ迄ずっと、「任天・任運」という考え方をしてきました。何か上手く行かないことがあったとしても、「これは天が判断したことだから、くよくよする必要なし」と考えるのです。之は、人生を良き方に向かわせるべく大切な考え方だと思います。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、人の人たる所以の道を貫き自分のやるべきを精一杯やった上で天の判断に委ねる、という考え方が重要なのです。

『論語』の「顔淵第十二の五」に、「死生(しせい)命あり、富貴(ふうき)天に在り…生きるか死ぬかは運命によって定められ、富むか偉くなるかは天の配剤である」という子夏の言葉があります。「福禄寿」は誰もが望むところですが、所詮人知人力の及ぶ所ではありません。物事が自分の希望通りに進んだならば、「天の助けだ。有り難い」と謙虚になって感謝の念を抱き、逆に思うような結果が得られなければ、「失敗ではない。この方が寧ろベターなんだ」と考えれば良いのです。如何なる結果になろうとも最終的には、それが自分の天命だと思い、天に任せるべきなのです。

之で、誰かを恨んだりすることもなければ、誰かに責任転嫁するような情けない真似をすることもありません。天がそれで良いと判断して齎された結果であり導いてくれた方向だと思えば納得でき、余計なストレスを溜めずして常に前向きに行動できるのです。こうして天にその責任全てをある意味押し付けて生きたらば、気がぐっと楽になり寝られなくなることも段々なくなるのではないでしょうか。

天の存在については、認める人もいれば認めない人もいるでしょう。私は育ってきた家庭環境の影響もあって、幼い頃から天の存在を自然と信じていました。長じて中国古典に親しむようになってからは、天の存在を確信するようになりました。此の地球上には食物連鎖という絶妙なバランスの中で、様々な生物が夫々に生を育んでいます。また日が昇り朝が来て日が沈み夜が来る、というサイクルが何億年・何十億年と繰り返されています。こうした類を単なる自然現象と捉える人もいるでしょうが、私はそこに絶対者の働きがあるものと考えます。

中国古典の碩学である安岡正篤先生も御著書『易学入門』の中で、「古代人はまづ天の無限なる偉大さに感じた。やがて、その測ることもできない創造変化の作用を見た。そしてだんだんその造化の中に複雑微妙な関係(數…すう)があること、それは違ふことのできない厳しいもの(法則・命令)であり、これに率(したが)ひ、これに服してゆかねば、生きてゆけないもの(道・理)であることを知つた」と述べておられます。

こうした古代人の一人が孔子であって、孔子は『論語』でも「君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る」(季氏第十六の八)と言い、天を畏れ敬っていたのです。此の「おそれ」にも幾つかの漢字があって、「恐れ(こわがる気持ち)」や「畏れ(敬い、かしこまる気持ち)」等と夫々少しずつ違ったニュアンスを含んでいるわけですが、何れにしてもこのような気持ちを我々が抱く場合何か絶対的なものがあり、その力が自身の力の限界を遥かに超えているという認識を有しています。

天そのものの存在を認めないがため天も天命も恐れることはないという人もいますが、我々が生きている此の現実世界では想像を遥かに超える現象が実際起きています。そうであれば、起きた物事に一喜一憂して神経をすり減らすのは、余りにも勿体ないと言えましょう。晴れていようが嵐であろうが、「自分が天から与えられたミッションは何だろう」と思いを巡らせ、毎日を一所懸命に生きるのです。そして日々精進を続ける中で我々はある日、自分の天命にふっと気付くことが出来るものです。

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