政治家は何時まで“いい顔”するのか --- 長谷川 良

ドイツに殺到する難民問題をテーマにコラムを書いたところ、読者の一人から、「ドイツ国民は難民に反対しているのではなく、現実を無視したヒューマニズムの押し付けに抵抗を感じているのだ」といった主旨のコメントを頂いた。このコメントは多分、正論だろう。

欧州は程度の差こそあれ、キリスト教社会であり、世俗化したとはいえ、キリスト教の神は依然、その影響を持っている。国民は教会に通わなくても、その教えを捨てたわけではない。「教会の神」ではないかもしれないが、神を信じている人が少なくない。ボランティアに励む人も多い。

紛争地シリアやイラクから逃げてきた難民に対して、政府が先頭に立って叫ばなくても多くの国民は人道支援に乗り出す。衣服、食糧、水を難民に運ぶ人々の姿が見られる。しかし、取り巻く社会状況(想定外の難民の殺到に直面)が厳しくなり、無条件に難民を受け入れることができなくなれば、難民受け入れ制限に乗り出さざるを得なくなる。ドイツの現状はそれだろう。

ドイツ国民が急に難民に抵抗を覚え出したというより、善意の限界に達した結果と表現すべきだろう。社会や個人がその善意の限界に達した時、ヒューマニズム(人道主義)を理由に受け入れを強要すれば、当然、強い抵抗感が出てくるだろう。先のコメント「現実を無視したヒューマニズムの押し付け」という内容だ。

それでは、誰が「現実を無視したヒューマニズムを押し付け」ているのか。ドイツの場合、メルケル首相か、それとも欧州連合(EU)のブリュッセル本部だろうか。現実は両者とも押し付けてはいない。

欧州では難民の受け入れを積極的に支援しているのはキリスト教会関係者が多い。彼らにとって、現実よりその信念や理念がより大切だ。例えば、オーストリアのローマ・カトリック教会最高指導者シェ―ンボルン枢機卿は、「宗派の違いは問題ではない。神の前にはすべて兄弟姉妹だ」と主張し、難民の受け入れを訴える。キリスト教の隣人愛の実践を要求し、犠牲を求めるわけだ。ローマ法王フランシスコの難民への熱いメッセージを思い出すだけで十分だろう。

隣人愛ではなく、ヒューマニズムが登場する場合だ。ヒューマニズムの主人公はあくまでも生身の人間だ。だから、その善意にも当然、限界がある。状況が厳しくなった場合、考え直す。難民の収容人数、受け入れ可能な人数を設定し、善意の限界線を引く。

問題が混乱するのは、善意の限界を抱えるヒューマ二ズムに隣人愛を叫ぶキリスト教関係者が連帯し、その難民戦線に積極的に発言する時だろう。また、難民の中には経済移民だけではなく、イスラム過激派も紛れ込んでいる可能性があるだけに、問題をより複雑にしている。そのような中で、「現実を無視したヒューマニズムの押し付け」は、当然反発も生まれてくるわけだ。

ドイツはオーストリアとの国境沿いに、オーストリア側はスロベニアとの国境沿いに金網の柵を設置しようとしているが、「あれは国境柵ではない」(トーマス・デメジエール独内相)、「安全を守るための技術的な建築物」(ファイマン・オーストリア首相)といった“柵の定義論争”が両国政治家たちの間で飛び出してくる。誰も“非人道的”と思われたくないからだ。どの国でも政治家は常に“いい顔”をしていたいのだ。

難民問題が表面化して以来、本音で問題の深刻さを指摘したEU加盟国指導者はこれまでのところハンガリーのオルバン首相だけだ。同首相がセルビアとの国境線沿いに高さ4メートルの柵を設置した時、他のEU諸国から激しい批判に晒されたが、批判した国の指導者たちが今、オルバン首相と同じことを行おうとしているのだ。

冬が近づいてきた。寒さに震える子供を抱える難民の母親の姿がTVニュースを通じて茶の間に届くと、ドイツ国民は再び、考え出すのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年10月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。