井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」Ⅱ

浅野乱心説の根拠
一、浅野はその時間があったにも関わらず「遺恨」の内容について何も語っていない。浅野周辺の人物にも心当たりがない。もちろん吉良にも心当たりがない。
二、浅野は犯行後田村家に預けられた。身は切腹、家禄は没収必至とわかっていながら異様なほど平静で食欲も旺盛であった。こうした状況下で平静であること自体異常性を表している。
三、刃傷の場面に関する最も信頼できる資料である「梶川筆記」が描写する情況。浅野は背後から突然吉良に切りつけた。
四、浅野の叔父鳥羽城主内藤忠勝はこの事件のおよそ20年前家光法要の席で乱心から刃傷に及び切腹させられている。浅野の家系には狂気の血があったとの推測が成り立つ。

付け届けが少なかったため、吉良が浅野に正しい礼式を教えなかったとの俗説は成り立たない。なぜなら、浅野の不始末はその指導係である吉良の失態となる。吉良は高家つまり幕府の儀典長のような立場である。職務上の誇りにかけてもウソを教えることなどあり得ない。浅野は16年前にもこの役を務めている。その時の記録も残っていたであろうし、経験した家臣もいたであろう。大抵のことは吉良に教わるまでもなかったはずだ。
この頃幕府側では綱吉の母桂昌院に従一位をもらう工作が進行中であったので、尚更吉良は勅使供応に気を使っていたはずだ。
第一そんなことがあれば江戸詰めの者達が赤穂の大石らに知らせたはずだ。だが大石は終に刃傷の理由について何も語っていない。知っていれば自らの仇討を正当化するため当然犯行声明で触れたはずだ。

吉良が浅野に製塩のノウハウを聞いても教えてくれなかったので怨んだという説は比較的最近のものであるがこれも成り立たない。塩の品質はほとんど自然条件によるので格別のノウハウなどない。

刃傷が乱心によるものとすれば、本人の切腹は免れないにしても前例から赤穂藩は取りつぶしを免れる可能性が十分にあった。大石が一年半余り、お家再興に動いたのは幕府があの裁き(浅野は正気であった)を見直して藩主の弟大学長広を立てて浅野藩再興(領地は赤穂以外に変わるにしても)を認める可能性が十分あると認識していたから。大石が茶屋遊びに呆けたのは吉良のスパイの目をごまかすためではなく、決着が着くまで遊びたかったのだろう。

直接赤穂事件とは関係ないが、浅野の赤穂藩主としての評価は領民の間で高くなく、逆に吉良の評価は非常に高いことも付記しておく。

井沢のこの本は、丸谷才一が「忠臣蔵とは何か」で提示した「この物語は将軍殺し、体制呪詛を含む曽我物語の系譜であり、綱吉調伏の意図を秘めている」とのテーゼを敷衍したものと言えるであろう。
綱吉の治世にハレー彗星の出現や富士山の大噴火(宝永噴火)があった。こうした天変地異も当時の人々には君徳に欠けるところがあるためととらえられた。

この本には書いてないが、吉良邸討ち入りがあの時期になったのは金銭的な事情もあった。大石は赤穂藩を清算する時、600両余りの退職金をもらっている。現在なら4~5千万円か。元禄15年の末この金はほとんどなくなっていた。だからあれ以上遅らすわけにはいかなかった。小藩とはいえ元家老が、コンビニや土木作業員のアルバイトをするわけにはいかない。

吉良方が大石の真意を探るためにスパイを放ったという話も馬鹿げている。もし大石が吉良を討つ可能性が少しでもあると考えていたのなら、あんなまだるっこいやり方ではなく、大石を暗殺したであろう。大石は藩内でも仕置家老大野ら敵もあったし堀部安兵衛ら江戸の急進派は大石のお家再興の動きを苦々しく見ていた。彼らの仕業と見せかけて暗殺する手もあった。

吉良上野介ほど不運な男はいない。何の落ちどもないのに狂人に切りつけられただけでなくその家臣に逆恨みされ首を取られた。災いはその子孫にまで及んでいる。吉良家は改易、跡取りの義周も討ち入りの際不始末があったとの咎で流罪に処せられ21歳で夭折。
名君上杉鷹山は、上野介五代末の孫だがこの御先祖の名は終生重荷になったことだろう。

一富士、二鷹、三茄子を聞いたことはあっても意味を知っている人は多くない。実は私もこの本で初めて知ったが、一富士とは富士の裾野の「曽我兄弟の仇討ち」、二鷹は「忠臣蔵(鷹は浅野家の家紋)」、三茄子は「荒木右又衛門の伊賀越えの仇討ち(伊賀茄子)」。つまり日本史の三大仇討ちを指すとか。もっともこれには異説があり、駿河名物とか家康が好んだものとする説もある。

青木亮

英語中国語翻訳者