韓国に民主主義はなくなったのだろうか?

岡本 裕明

一般的な民主義国家では一つのことを皆で議論したり討論するなかでそれぞれの意見や考え方はある程度尊重するし、ましてや捕まることはありません。残念ながら韓国には民主主義という発想が薄らいでいるようです。答えは常に一つでそれは正しかろうが、間違っていようが、異論があろうが一切関係なく、決められたこと以外は許されないのでしょうか?

韓国の世宗大学教授の朴裕河教授が出版し、アジア太平洋賞と石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した「帝国の慰安婦」が日本軍と従軍慰安婦を「同志」という扱いで記しているため、その内容は虚偽にあたるとして在宅起訴されました。

このニュースを受けて54名の著名人が抗議声明を発しているのですが、そのメンバーが実にユニークであります。村山富市、河野洋平、大江健三郎、上野千鶴子氏らであり、いわゆる従軍慰安婦問題については反対側の立場の方々であります。抗議声明は「公権力が特定の歴史観をもとに学問や言論の自由を封圧する挙に出た」とするとともに「予断と誤解に基づいて下された」としているのです。この方々から予断と誤解という言葉が出てくること自体が滑稽でありますが、韓国に於ける言論弾圧についてこのようなボイスが日本から出てくることは切り口を新たにするという意味で歓迎であります。

韓国では10月に朴大統領が教科書の国定化を発表しました。日本の教科書は検定化で誰でも作れるが、検定でその内容を調整する方式ですが、国定化は国が定めた一つの答えだけを強制的に議論なく飲み込ませる、ということであります。わかりやすく言えばそれ以外は真実がないともいえ、一種のバイブル化であります。国定教科書は北朝鮮などごく一部の国でしか採用されておらず、韓国では1974年に国定化されたものの民主化を推進するため、2011年までに解除されていました。つまりこの4年で非民主化に逆戻りする道を大統領は選んだわけです。

これを受けてあの左巻きのNew York Timesも11月19日付の記事でこれを紹介しています。特に記事では国定教科書問題と財閥系企業の解雇緩和問題、「カカオトーク」の表現の自由問題を取り上げ、backtracking on the democratic freedoms(民主的自由化からの逆行)と指摘しています。

産経新聞の加藤元支局長に対する過剰反応も同様でしょう。記事を読んだ者として言わせてもらえればあの程度のタブロイド的内容でかつ、憶測記事であるにもかかわらず検察は裁判沙汰にし、国際世論から痛烈な批判を浴びてもなおその姿勢を改めない韓国当局の姿勢は柔軟性と思考や表現の選択を排除した思想洗礼国家と言われても仕方ないでしょう。

慰安婦問題でも韓国国内にはいろいろな考え方はあるはずです。ところが政府が統制したある方向以外の発言は国家反逆罪に処する勢いであるならば国民の自由発想は芽生えず、創造力を生まず、まさに失われた時代に突入しようとしているようにすら見えます。

朴大統領が思想統制をしたいその主たるポイントは日本の植民地支配への見解、1945年直後の国内の反政府運動の分析、朴正熙氏の評価の三つとされています。とりもなおさず、これに対する一定の政府統一見解を出さなければ国内が割れ、政治、経済の安定基盤がそがれ、ひいては朴政権に打撃を与える、という流れでしょう。保身とも言えそうです。

これは古朝鮮を含め長い朝鮮半島の歴史が喧嘩と争い、そしてその際に味方を誘い込む手法に終始してきた民族を表層的に支配するための消極的な政府対応のようにみえます。これではまるで歴史本で動乱の中をさまよう話の途中であって、韓国は一体どこに向かっていくのか、ミステリーと化してしまう気がします。

では、今日はこのぐらいで。

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