夫婦別姓、再婚期間の最高裁判断に思うこと

注目された夫婦同姓と女性の再婚期間を定めた民法をめぐる問題で最高裁判所大法廷は「一勝一敗」の判決を致しました。それぞれについて思うところを記してみます。

15人の裁判官のうち、10人が合憲、5人が違憲とした夫婦同姓の判断ですが、その判決内容を見る限り、何でも自由にはならない、という釘を刺したように見えます。ポイントは夫婦のどちらかの名前を選択する自由はあるがそれぞれが別姓を名乗るまで自由にする合理的判断が出来ない、ということでありました。

別姓を名乗りたければ法律婚(結婚)をせず、同棲、内縁、事実婚の選択肢もある、とも解釈できます。北米では離婚するデメリットを避けるため、事実婚、英語ではパートナーと称する関係も増えています。(ただし、こちらは法律婚に近い権利と義務がありますが。)

また、小中学校時代から知り合いで10数年以上友達以上恋人未満の付き合いをしている人が結婚するケースもたまに見かけます。年齢を考えた妥協の結婚の場合もあります。その際、精神的にあまり盛り上がらないそうで結婚後も前の付き合いの時と同じ友達感覚、というコメントはよく聞きます。このような形で結ばれた方は今さら同姓よりも別姓の方がなじむとお考えになるのでしょう。

ではなぜ法律婚するのかといえば社会的ステータスと認知、子供と養育、相続や控除などの税メリット、家族手当などの給与上の優遇、親族ステータスの確保など数多く存在します。事実婚と法律婚では明白な法的、経済的差異が生じ、事実婚の不利益は言うまでもありません。

私の周りで特に結婚せずにパートナー関係で留まっているのはいわゆる離婚経験者が用心深くなっていること、一定年齢になって出会いがあった場合などはでお互いの自由度を確保する為に結婚という契りを結びたくない、更には子供に再婚を反対されているなどの理由のようです。

最高裁の判断について女性の方からの不満の声は理解できます。特に北米では夫婦別姓が認められていますからそれに感化されている部分もあるでしょう。しかし、ここはもう少し深堀した方がよさそうです。

日本の場合、儒教的思想を通じた家族が伝統でした。(今は違うかもしれません。)確かに時代の変遷でその価値観は変わってきていますが、日本に於ける夫婦別姓は氏名だけの権利を指しているのかまだ議論が足りない気がします。つまり、名前だけの表層的事象の憲法判断だけではなく、「家系」の意味あい、あるいは「嫁ぐ」の語意(⇒夫の家で暮らす)、更には天皇家で女系の人が外の人に嫁いだら天皇家とは切れるという関係の説明はどうするのだろうといった様々な疑問がふつふつと沸いてくるのです。

憲法判断は法律判断であって感情移入はあまりないとすれば夫婦別姓の本質議論はまだ不十分だったということではないでしょうか?何が何でも世界の潮流に今すぐ合わせる必要はないわけで日本独自の判断をしていけばよいのでしょう。「一票の格差の問題」と同じで何度もこの問題を社会の中で揉んでいくことで一定の理解が進み、法律改正につながっていくと思います。

次に再婚期間ですが、これは違憲と出ました。女性の場合、離婚後180日は再婚できない民法の規定が変わることになりそうですが、まずは100日の線で検討が進むことになるかと思います。ただ、この100日の合理性もどこにあるのか十分な論拠について議論を呼ぶでしょう。(90日や110日ではだめなのかといった論理性です。)多分、日数で規定する以外に代替の方法も提示するなどの選択肢があればよいと思います。

例えば、再婚するに際して妊娠していないことを医学的に証明できればよいだけの話で、現代医学では簡単なことではないでしょうか?婚姻届けに妊娠の有無を自己申告することも一案だと思います。妊娠しているなら父親の証明を提出させ、それが虚偽ならば罰則規定を設けるなどの案はあると思います。

海外では妊娠しているかどうかの質問がやたらと多いのですが、それが人権問題に発展した話はまず聞きません。例えば妊婦が旅行で北米に遊びに来て北米で生まれてしまったら出生地主義なので国籍が取れてしまいます。それを防ぐために入国拒否や妊婦が必ず本国に帰るかどうかの確認をするのは政府として当然の行為でしょう。そう考えれば婚姻の際の妊娠の有無の確認は役所業務の当然の確保された権利ではないでしょうか?

今回の最高裁の判断を世論がどう受け止めるかですが、少なくとも国民ベースで議論を巻き起こしたことはよかったでしょう。この判断をベースに政治が動くべきです。つまり立法をすべき役人と政治家の腕にかかっていると言ってよいでしょう。それが今後、時代の流れと共に発展的に変わっていくことは大いにあってよいことかと思います。

では今日はこのぐらいで。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人 12月18日付より