マザー・テレサが願っていたこと --- 長谷川 良

2015年12月20日 14:00

修道女マザー・テレサ(1910~97年)は来年9月にも列聖(聖人)されることになった。テレサは1979年、修道会「神の愛の宣教者会」を創設し、貧者救済に一生を捧げた。その功績が認められ同年のノーベル平和賞を受賞し、死後は、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の願いで2003年10月19日に列聖の前段階の列福(福者)されたことは良く知られている。そのテレサが今度は列聖されることになった。

ローマ・カトリック教会総本山のバチカン法王庁は18日、フランシスコ法王がテレサの列聖を認定したと発表した。それによると、列聖の条件となる2つの新たな奇跡が公認されたので、聖人の道が開かれたというのだ。異例の早い列聖となる。

テレサは決して孤高な信仰者ではなかった。彼女の生前の書簡内容が明らかになったことがある。テレサは、「私はイエスを探すが見出せず、イエスの声を聞きたいが聞けない」「自分の中の神は空だ」「神は自分を望んでいない」といった苦悶を告白している。テレサの告白が報じられると、教会内外で大きな反響が湧いたことはまだ記憶に新しい。

マザー・テレサの書簡は、テレサが超人的な信仰者としてではなく、悩み苦しみながら神との対話を求めていった1人の修道女の姿を伝えてくれている。

テレサはコルカタ(カルカッタ)で死に行く多くの貧者の姿に接し、「なぜ、神は彼らを見捨てるのか」「なぜ、全能な神は苦しむ人々を救わないのか」「どうしてこのように病気、貧困、紛争が絶えないのか」等の問い掛けがあったはずだ。

当方はこのコラム欄で、「神が愛ならば、愛の神がなぜ、自身の息子、娘の病気、戦争、悲惨な状況に直接干渉して、解決しないのか。『神の不在』を理由に、神から背を向けていった人々は過去、少なくなかったはずだ。マザー・テレサの告白は、『神の不在』に関する背景説明が現代のキリスト教神学では致命的に欠落していること、結婚と家庭を放棄して修道院で神を求める信仰生活がもはや神の願いとは一致しなくなってきたこと、等を端的に示している」と書いたことを覚えている。

聖人の道が開かれた祝いの日に、なぜテレサの苦悩を紹介するのかと指摘されるかもしれない。当方はノーベル賞受賞の日、テレサが「平和賞の賞金はいくらですか」と聞き、受賞式典や華やかな晩餐会には全く関心を示さず、平和賞の賞金でどれだけの貧しい人が救えるかを考えていたというエピソードを聞いたことがある。

バチカンがマザー・テレサの列聖を公表したが、テレサがそれを知ったならば、「私は列聖には関心がありません。列聖式を挙行する時間があるのなら、貧しい人々の救済のために投入して下さい」と問いかけるのではないか。

列福、列聖はカトリック教会の式典であり、生前、敬虔で素晴らしい功績を立てた信仰者に与える一種の勲章だ。ヨハネ23世、ヨハネ・パウロ2世の列聖式(2014年4月27日)は素晴らしかったが、テレサの場合、やはり、少し違うのではないかと感じるのだ。

テレサが最も願っていたことは何だったのか。彼女は貧者の撲滅を願い、その為に生涯を尽くした。個人的には、神、イエスとの出会いを希求していた求道者だった。ノーベル賞でも、列聖でもなかった。

マザー・テレサの苦悩を知ることで、当方は改めて修道女の偉大さを知った。テレサは生前、「愛の反対は憎悪ではありません。それは無関心です」と語ったという。

フランシスコ法王は来年1月1日の世界平和の日のメッセージの中で、「無関心を乗り越え、平和の実現のために戦え」と激励し、「神は無関心ではない。神にとって人類は貴重だ。新しい年には公平で平和な世界が実現できるという希望を捨てない。平和は神の恵みであり、人間の業だ」と述べている。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年12月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。


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