日本はどの様な国になる事を目指すべきか?

せっかく新年なので、たまには大局的な事を提言してみたい。具体的には、私の独断と偏見で「日本が目標とすべきもの」を4項目にまとめ、それを達成する為の方策の大略を下記に述べさせて頂いた。ちなみに、これらの事は、日本国民の全てに「自由で、豊かで、誇りを持てる生活」を保証する為に、どうしても必要だと私自身が常日頃から考えている事だ。

(1)あらゆる種類の攻撃に対する抑止力を持った「独立主権国家」

現在、一部の人達は「日本はスイスやシンガポールやオランダやデンマークの様な国になるべきだ」と言っている様だが、それにはかなり無理がある。陸上の面積は小さいが、領海を含めると日本はかなり大きい国である。減少傾向にあるとはいえ、人口は現時点で1億2688万人であり、パキスタン、バングラデシュ、ナイジェリア、ロシアに次ぐ世界第10位である。しかも、平均的な国民の教育水準の高さと勤勉さには定評がある。GDPは中国に抜かれたとはいえ、まだ世界第3位であり、幾つかの産業分野では、世界最高水準の技術力を誇る。

深刻な国内問題を抱えて「国民の目を外に外らしたい」と考えた幾つかの隣国が、「軍事力で何とかなるのなら、出来ればこの国を支配下に組み入れたい」と考えたとしても、我々にはそれを防ぎ得ない。「露骨な内政干渉」と「領海内の幾つかの島嶼、及び沖縄の領有権の主張」が、あり得るシナリオだ。

地政学的に見ると、日本は「島国」という圧倒的に有利な条件を持ってはいるが、東は、太平洋を挟んで、ともすれば傲慢になりがちな「超大国アメリカ」と接し、西は、東シナ海を挟んで、覇権主義的な野心を今や隠そうともしなくなった「潜在的超大国の中国」と接している。そして、北には、昔ほど野心的ではないが、今なお警戒を怠れない「大国ロシア」と、何かと面倒な「韓半島の分裂国家」が存在している。とても安閑としていられる立場ではない。それ以前に、もしシーレインが自力で守れなくなれば、独立国として経済的に存続する事もたちまち不可能になる。

従って、日本が外国からのあらゆる種類の攻撃の可能性を抑止し、「独立自尊の民主主義国家」として存続し続けるには、ある程度のレベルまで現在の自衛戦力を増強する一方、米国との同盟関係を揺るぎないものにして、中国とロシア、それに韓国や北朝鮮が、間違っても「安易な冒険主義」に走らぬ様にしておかねばならない。

(2)社会的にも経済的にも安定した「高度な福祉国家」

国民皆保険制度が定着し、悲惨な生活を強いられている人達の数が未ださして大きくない日本は、現時点で既に相当な福祉国家であると言えるが、それを支えている社会保険制度は、高齢化の加速によって、今や崩壊の危機に瀕している。

「GDPに比して圧倒的に巨額な国家債務」は、世界に例を見ないレベルであり、現時点ではこれまた世界に例を見ない「膨大な国民の総貯蓄額」に支えられているとはいうものの、この状況が何時までも続く保証はない。現時点で10%程度に抑えられている外国人による国債保有が、将来もし20%を超えるような事にでもなれば、外国人の思惑次第で何時何が起こるか分からず、財政破綻のリスクが一気に高まる。

この様なリスクを軽減する為には、先ずは国際収支の永続的な均衡を確保した上で、サービス産業を拡大し、これによって雇用と税収が増大し、財政規律が徐々に回復していくという「望ましいサイクル」を定着させる必要がある。しかし、一方では「外国人労働者の導入はあまり野放図にやるべきではない」という考えも尊重する必要があるので、「高齢者と女性がもっと活躍の場を持てる体制を作る」事は急務であり、安倍政権がこの事を目標に掲げているのは正しい。外国人労働者の導入とは異なり、これは「増え続ける社会保険支出」の抑制にもつながる。

現在の世界経済は、「市場原理」をベースとする「グローバル経済」によって成り立っており、これは、かつての「帝国主義」や「閉鎖的なブロック経済」、更には一時期の「イデオロギー闘争で分裂した世界」に比べれば、はるかに望ましい姿である。これによって、発展途上国の住民の生活水準も確実に上向く。それ故、日本もその中で自らの活路を見出さねばならない。「反グローバル経済主義」は、自滅以外の何物ももたらさないだろう。

しかし、もしこのまま「グローバル市場主義」を野放しにしておけば、米国を中心とする国際金融資本が暴走して「多くの新たな矛盾」を惹起するのは必然故、日本は、北欧諸国等を範として、積極的な外交交渉によってその暴走を防ぐ努力をすべきだ。「産業資本主義」体制が「国家による計画経済体制」より優れているという事は、ほぼ実証されたと言ってもよいだろうが、その運営をより効率的にする為の「金融資本主義」のあり方については、現状でも既に「行き過ぎ」が目立ち、まだ最終的なコンセンサスが得られている訳ではない。

税収の増大については、法人税を高くすれば企業活動を萎縮させ、資本の海外逃避を加速させる故、やはり消費税に多くを依存するしかない。その為にも「税と社会保障の抜本的な一体改革」は急務である。

社会を安定させる為には「格差是正」は勿論必要だが、その為の諸政策が企業活動の活性化を妨げれば元も子も無くなる。問題はむしろ「既得権にあぐらをかき、それが出来ない人達との間に大きな格差を作り出している人達」の存在にある。例えば、雇用形態についても、非正規社員の全てに正規社員同様の安定を保証する事が不可能である以上は、むしろ「正規社員の特権」にメスを入れた方がよい。

(3)エネルギー消費を徹底的に下げる社会を作る一方で、諸産業の強い国際競争力を実現する「科学技術大国」

資源に乏しい日本が、国際収支を継続的に均衡させつつ必要な税収を確保していく為には、エネルギーの消費を抑えつつ、産業競争力を高めていくしかない。その決め手は、簡単明瞭、常に「技術革新」の最前線に自らの身を置く事である。(ここで言う「技術」には、「商品の開発力と製造技術」のみならず、それと表裏一体である「経営技術」や「市場開拓技術」が当然含まれる。)

この為には、全ての企業経営者のマインドセットから「事なかれ主義」を断固として一掃する必要がある。そして、その為には、各企業を常に厳しい競争環境に置いた上で、各ステークホルダー(顧客、株主、従業員)がそれぞれの立場から経営者に注文をつける事を可能にする体制を作る事が必要だ。「経営の透明性」と「経営者の説明責任」を要求する事にはついては、一切の妥協を排除すべきだ。

全ての企業は「自助努力」を基盤とするべきであり、何事によらず「国による保護」を求める様な甘い姿勢は、決して許してはならない。「親方日の丸」式の安易なプロジェクト運営や「既得権の保護」は論外である。国は大学や独立の研究所等に資金を拠出する事によって、基礎技術の研究体制については遺漏なきを期すべきだが、その他の面では、公開の場で企業経営者と徹底的に議論を闘わす事によってのみ「規制と支援の方針」を決定すべきだ。

日本の産業界は、将来の一大成長分野と目されていた「通信・コンピューター」と「半導体」の分野で、当初は相当先行していたにもかかわらず、一気に世界での競争から脱落するという大失策を犯した。こうなった原因は、政策上の誤りも全くなかった訳ではないが、基本的には「民間企業の不甲斐なさ」に尽きる。しかし、「素材」「部品」「機械」「自動車」等々の分野では、「きめ細かさ」と「忍耐強さ」という日本人特有の二つの美点が、なお遺憾なく発揮されていて、世界をリードしている現状に変わりはない。

問題は、今後ますます重要となる「発想の柔軟さ」と「構想の大きさ」の両面で、世界に伍していけるかどうかだ。この為には、時間はかかるが、現在の日本の「教育のあり方」を、抜本的に見直していかなければならないし、それしかない。これは、政府と民間がベクトルを合わせて、なりふり構わず最大限の努力を傾注していくべき問題だ。もはや悠長に構えている余裕はない。

最後に、日本が何としても世界をリードしていくべき分野として、資源を大幅に節約して環境を守る「循環型の社会システム」の構築がある事を強調しておきたい。日本にはそのニーズがあるし、日本人だからこそ出来る様な事も色々あるだろうから、「先ずは日本が世界のお手本を示す」事には大いに意味がある。ここで培われた技術は、日本の国際収支の均衡にも当然役立つだろう。

(4)世界中で尊敬される「道義を重んじる国」

世界が多くの主権国家からなりたっているという現在の状況が続いている限りは、日本人も「日本という国の国民であるという誇り」の源泉となる「何等かの精神的なバックボーン」を持つ事が望まれる。それは、とりもなおさず、我々が外国人と交わる場合に「日本人はどういう民族だと思って欲しいか」という問いに対する答にもなるだろう。慰安婦問題で、日韓の「大嘘つき達」に父母や祖父母を不当に貶められた多くの日本人は、これを強く意識したと思う。

かつては「日本は世界に例を見ない万世一系の天皇が統治する神国である」という強い「思い入れ」が、国民を一つに纏めていたが、残念ながら、この「思い入れ」は「非科学的」であり、「独りよがり」であり、且つ「排他的」でもあった。そして、戦争の成り行きが思わしくなくなると、これは、次第に、絶対に異論を許さない「狂信的なもの」になって、世界中の国々の危惧を招いた。

一方、その当時から、細々とではあったがこれに真っ向から反対し、終戦後は、知識人や労働者、学生等の多くの人々に対して、一気に強い影響力を持つに至ったのは「共産主義」だった。しかし、残念ながら、こちらの方も、ソ連を筆頭とする多くの共産主義国の失敗や転向によって、もはや思想的なバックボーンとはなり得なくなった。

現在の日本人の大方のコンセンサスは、「自由」「平等」「平和」を「追求すべき価値観」の三本柱とする「民主主義的法治国家」を志向する事だと思うし、その事に異論を挟む人は殆どいないと思うが、こういう言葉は世界中の殆どの国が標榜している抽象的な概念であり、日本人のアイデンティティーを示すものとしてはインパクトに欠ける。また、それを実現する為の方策となると、人によって考え方が大きく分かれ、コンセンサスとしては成立すべくもない。(現在の「護憲論者と改憲論者の考え方の大きな乖離」もそれ故に起こっている事である。)

※私自身が「外国人に日本人をどう思って欲しいか」ともし問われれば、私の答は簡単明瞭、「嘘をつかない」と「約束を守る」と「筋を通す」である。この三つを総合すると、「道義を重んじる」という事になる。その様に「素朴で分かりやすい評価」を受ける事こそが望ましい。これに「優しい(相手の立場を慮る)」と「潔い(何時でも自分の非を認める勇気がある)」が加わる事になれば、更に嬉しいが、そこまでは無理だろうから、欲張らない。日頃の言動を通じて、こういう評価が本当に固まっていけば、外交の上でもビジネスの上でも、日本人は随分とやり易くなるだろう。

松本 徹三

(※追記 12:00)