「私は知らなかった」からの別れ --- 長谷川 良

日本では甘利明経済再生担当相が辞任した。甘利氏は、千葉県の建設業者側から2度にわたって献金を受け取った件を認めたうえで、秘書に「適正に処理」するよう指示したと語ったが、秘書が受領した500万円のうち、200万円は適切に会計処理したが残りの300万円は秘書が個人的に使用した点が疑惑を呼んでいる。

今、書こうとしているテーマは甘利氏辞任劇とは直接関係がない。「私は知らなかった」という弁明について、一種の哲学的な思考を巡らせてみただけだ。お付き合いを願う。

前日のコラムで紹介した元ナチス幹部のアドルフ・アイヒマンの公判での発言が気になった。「私はユダヤ人虐殺の件は知らなかった」「私は上からの命令を受けてそれを従順に履行しただけだ」と述べたという。この発言は死刑を逃れるためのアイヒマンの弁明だったのかもしれないし、ひょっとしたら、事実かもしれない(「アドルフ・アイヒマンの恩赦請願」2016年1月30日参考)。

この発言を読んだ時、当方はナチス・ドイツ軍の戦争犯罪容疑で国際社会から激しいバッシングを受けたオーストリアの元大統領、クルト・ワルトハイム氏(1918~2007年)の事を思い出した。ワルトハイム氏もアイヒマンと同様、「私は通訳将校としてバルカン戦線に参加していたが、ナチス・ドイツ軍のユダヤ人虐殺の件は知らなかったし、知れる立場でもなかった」と当時、説明していた。両者の発言は酷似している。

両者の「その後」は少し異なった。アイヒマンは「人道への罪、戦争犯罪」で絞首刑を受け、ワルトハイム氏は世界ユダヤ人協会を含む国際社会から激しいバッシングを受け、現職中はオーストリアを訪問する国家元首はなく、淋しい王様と呼ばれ、最終的には再選出馬を断念せざるを得なかった。ちなみに、大統領職を降りたワルトハイム氏は後日、「私の返答」という著書を出版して、自身の潔白を重ねて主張したが、アイヒマンにはその時間は与えられず、絞首台に消えた。

「私は知らなかった」は、ある意味で容疑を受けた者の常套句だ。知らなかったから、「私は潔白だ」という論理だ。もちろん、知らないのにその責任を追及されれば、堪ったものではない。誰かが悪事を犯した。その悪事を行った者の上司、同僚だった、という理由で共犯扱いされたら、これまた大変だ。

一方、甘利氏の辞任が明らかになると、安倍晋三首相は、「私には任命者としての責任がある」と述べ、閣僚の不祥事に謝罪を表明した。同じことが会社の不祥事でも社員の責任に社長が辞任に追い込まれるケースは少なくない。ある意味で、共同体の連帯責任だろう。不祥事を知らなかったことは即、監督不行き届きという責任論が出てくる。

それでは、その連帯責任はどこまで該当するのだろうか。会社の場合、社員の不祥事に対して社長だけではなく、その社員の直接上司の課長、部長が責任を負うケースもある。不祥事の内容でケース・バイ・ケースというべきかもしれない。

ところで、人類の始祖アダムとエバの失楽園の話を思い出してほしい。旧約聖書「創世記」によれば、エバは蛇の誘惑を受けて神の戒め、取って食べてはならないを破り、食べた。その直後、エバは神の教えを破ったという良心の痛みから逃れるためにアダムを誘惑して彼も同じように食べた。神がアダムとエバを追及する。アダムは「あなたが与えてくれたエバが食べるようにいいました」と述べ、エバの責任を強調。一方、エバは「蛇が……」と弁明し、失楽園の深刻な結果について、「私は知らなかった」と言い逃れた。

私たちは不祥事が生じる度に「私は知らなかった」と直ぐに口から飛び出す。驚きに値しない。「私は知らなかった」という台詞は、人類の歴史が始まってから今日まで繰り返されてきた弁解用語だからだ。

身近な問題を考えてみる。地球温暖化による気候不順について、「私は知らなかった」といえるだろうか。若い女性が露出度の多い服を着て夜道を一人歩いて、暴行を受けた時、「私は知らなかった」と弁明できるだろうか。

イエスは2000年前、「私は知っていた」と宣言し、全ての罪を自分の責任として背負っていった。彼は自身が直接関与しなかった人間の不祥事に対しても「私は知っていた」と呟き、十字架上で亡くなった。

それでは、イエスは私たちの何を知っていたのか。人間は責任を追及されれば、必ず「私は知らなかった」と弁明すると熟知していたのだろうか。愛弟子ペテロは「お前はあのイエスと共にいた」と追及されると、「私はあの人を知らない」と3度答え、自身にふりかかる危険から逃れた。

「私は知らなかった」という弁明は、「私は知っていたが、知っているといえば責任が追及される」といった自己防衛本能が働いた結果かもしれない。厳密に言うと、「私は知らなかった」と主張する人は実は「何が善であり、何が悪か」を知っていることを実証していることにもなる。私たちに生来備わっている“良心”がそれを知っているからだ。本来、弁解の余地がない。

これまで押し潰されてきた“良心”が時代の進展と共に次第に研ぎ澄まされてきたから、特定の宗教、道徳、倫理、法に依存しなくても何がいいか、悪いかが分かる時代がそこまで来ているのではないか。換言すれば、審判の時代の到来だ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年2月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。