「保育園落ちた日本死ね」ブログをほめるな

2016年03月05日 02:50
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民放テレビに流れたブログの画像

感情的な文章を称える愚行

子どもが保育園に入れなかったママが書いたとされる「保育園落ちた日本死ね」というブログが話題となった。これを、山尾志桜里衆議院議員が衆議院の予算委員会で取り上げ、安倍首相に迫った。また3月4日には「保育園落ちたの私だ」というプラカードを掲げ国会前をデモする人がいた。いつもの通り組織化された政治行動であり、デモ写真には共産党議員が映っていた。同党が政治的揺さぶりをかけるために、この騒動を利用しようとしているのだろう。

この文章を読んでみた。同情はする。しかし物書きの端くれである私から見ると幼稚な文章だ。「死ね」「子ども生むのなんかいねーよ」「税金使ってんじゃねーよ」という感情的な言葉の羅列だ。どこに共感すればいいのだろう。そして何も学ぶものがない。もちろんブログに個人的な感情を吐露するのは表現の自由であり、変に騒ぐ周囲の人々が問題だ。

民主党の山尾議員は検事出身だそうだが、いつも国会で感情的に騒ぐので気味が悪い「民主党的」女性だ。安倍首相は山尾氏の追求に「匿名なので確認できない」といい、自民党議員席からは「誰が書いたか分からないものを国会で取り上げるな!」というヤジが飛んだそうだ。私もそう思う。記者として訓練を受けた私に取って、いや普通の社会人に取っても、匿名情報源が流す情報は、真偽を確認できない危ういものだ。

そもそも国が行う政策は法律に基づく制度作りと予算措置だ。保育園の具体的な設置、サービスの実施は地方自治体の責務であり、また地域事情は国内でさまざまだ。人々の不満のたまる今の政策を擁護するつもりは毛頭ないが、民主党、野党が自治体の問題としてではなく、いきなり「天下国家」の話から保育問題を語るのは、問題解決のための手順を間違っている。

このブログ主は生まれて数年(1年?)の子どもの保育を探しているようだが、考えて見れば、夫婦の勤務の時短は会社との関係であり、自治体・民間は不十分でも地域で保育園以外の代替サービスを提供しているだろう。「日本死ね」とか政治家の言うような「アベ悪い」の問題ではないはずだ。

国のできることはどこまで行っても限られる

子育てが大変なことは自明である。私も、私の両親も苦労した。しかし、それをさまざまな人の協力などで乗り越えられた。不十分であっても、代替措置はいくつかある。民間保育園、民間託児所、親や親族の協力。保育園が子どもに、また家庭に最適かも分からない。そうした制度を利用しながら、大半の人は歯を食いしばって、子育てを行う。それをしないで「死ね」などの呪詛をばらまく親によって、子どもが悪影響を受けることが心配だ。

また子育てで迫り来る危機は予測できるものだ。民間調査によれば、高校までの学費・生活費で平均2000万円の費用が子ども1人に必要だ。保育園の後もさまざまな障害が子育てには立ちはだかる。子どもの人生は始まったばかりなのに、そこで子育てに感情的になる親は今後の苦難を乗り越えられるかも心配だ。

もちろん私はすべてを自分で子育てをしろなどという暴論を吐くわけではない。予算の許す限り、保育支援の拡大を進めるべきだ。しかし人生のあらゆる場面で、国のできることはどこまでいっても限られる。もちろん支援制度の整備を主張することも当然だが、人生のすべての物事では自己責任を覚悟しなければならない。子育てという、つらさも含みながら、意義深い、楽しい営みもそうだ。

どこの誰かが書いたかも分からない文章に感情移入する前に、政治家も、問題に直面する子育て世代も、また騒ぐ周囲の人も、するべきことがある。問題に直面した人は、国への呪詛の前に、家族のために金を稼ぎ余裕を作ることこそ、まずやらなければならないことだろう。政治を呪っても金と時間は子どもと親の上には降ってこない。

政策決定で国民の感情ばかりに注目し、政府批判を煽る「民主党的」「共産党的」アプローチは大変危険だ。私は経済記者として、さまざまな社会問題、経済的問題の発生と、その対応する政策の成立を観察してきた。行き詰まった問題で、感情論が強まり始めると、世論とメディアがおかしな方向に走り、政策が非合理的になり問題が解決しなくなった。

特に深く観察した問題に、「金融危機対策」「改正貸金業法」「エネルギー・原子力政策」の3つがある。感情に走らずに一番効果のあるとされた公的資金注入をした金融危機対策がうまくいき、「被害者を思え」と感情に流れた後ろ2つは大混乱が現在進行形で続いている。政策や制度づくり、それに伴う社会問題の解決では、できる限り合理性を追求し、感情に揺さぶられてはいけないのだ。

「国に扶養され自尊心と活力を失った人間にはなりたくない」

子どもの保育支援は「金がない」という難しい問題であり、即座の解決はないだろう。いつまで経っても、誰かが不満を持つはずだ。また私は「感情的になってはいけない」という常識論は言えるが、恥ずかしながら具体的な解決をめぐるアイデアを持っていない。ただし問題のとらえ方をめぐり、参考になりそうな考え方を述べた一つの文章を紹介したい。あるベンチャー企業家に教えてもらった。

あるアメリカ人の信条

私は平凡な人間にはなりたくない。自らの権利として限りなく非凡でありたい。

私が求めるのは保証ではなくチャンスなのだ。国に扶養され自尊心と活力を失った人間にはなりたくない。

私はギリギリまで計算しつくしたリスクに挑戦したい。つねにロマンを追いかけ、この手で実現したい。

失敗し、成功し…七転八起こそ、私の望むところだ。意味のない仕事から暮らしの糧を得るのはお断りだ。

ぬくぬくと保証された生活よりも、チャレンジに富むいきいきとした人生を選びたい。

ユートピアの静寂よりも、スリルに満ちた行動のほうがいい。

私は自由と引き換えに恩恵を手に入れたいとは思わない。人間の尊厳を失ってまでも施しを受けようとは思わない。

どんな権力者が現れようとも決して委縮せず、どんな脅威に対しても決して屈服しない。

まっすぐ前を向き、背筋を伸ばし、誇りを持ち、恐れず、自ら考え、創造し、その利益を享受しよう。

勇気を持ってビジネスの世界に敢然と立ち向かおう。

ディーン・アルファンジュ(米政治家)

自分で問題を解決することを当然と思う。他人に施しをもらうことは、自由と活力と尊厳を失う面があることを認識する。権力には頼らない。こうした発想が社会の根底にあれば、国と個人は依存関係がなくなる。一言でまとめれば、明治の思想家福沢諭吉が強調した「独立自尊」の信条だ。

「独立自尊」を信条に持つ人が自律的に運営する社会。「アベ悪い」「日本死ね」と感情的に叫び、国を批判しながら国に頼る人ばかりの社会。どちらが健全だろうか。子どもの健やかな成長をもたらすだろうか。もちろん前者だが、日本で後者にしたがる人が目立つのは心配だ。

社会問題に声を上げて変革を促しながら、自己責任で問題解決に向き合うのは当然だ。しかし「保育園落ちた日本死ね」などと叫ぶ文章を称え、感情に流れ、適切な思考に基づかない社会混乱を作り出していけない。それは問題の解決を遠ざけるだけだ。

追伸・ジャーナリストの今一生さんが、取材の中で見た、民間による保育サービスの変化をまとめている。「保育園問題は、民間で市民自身が解決できる」。ぜひ一読を。こうした取り組みを支え、自分で解決に動く社会が望ましい。

また東京新聞論説委員の長谷川幸洋さんの論説も読むことを勧めたい。「待機児童問題は深刻なのに10年経っても「保育所事業」へ株式会社の参入が進まない理由」。東京都世田谷区では、今だに民間企業がサービス展開をできず、これは地元の社会福祉法人の反対、区役所の法律に基づかない行政活動が一因という。保育所利権、また地方自治体の怠慢という問題が背景にあるようだ。国だけが問題ではない。

石井孝明
経済ジャーナリスト
メール:ishii.takaaki1@gmail.com
ツイッター:@ishiitakaaki

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