東大入学式、学長は何を語るべきだったのか

渡瀬 裕哉

東京大学の入学式で学長が「新聞」を話題にすること自体がピントがずれている

東京大学入学式で学長が「新聞を読め」と言ったと報道してみたり、ネットから「新聞の内容を疑えの間違いだろ」という突っ込みが入ったりしているが、そもそも大学の入学式で「新聞」を話題に取り上げることのレベルの低さに呆れざるを得ません。

学長の式辞の趣旨が「世の中に出ている情報を疑う気持ちをもって自ら事実を確認して考えよ」という意味だったとしても、筆者が思う感想としては「だったら、大学なんかに入学するなよ」と思うわけです。

学長は「知のプロフェッショナル」になるため、「自ら原理に立ち戻って考える力」、「忍耐強く考え続ける力」、「自ら新しい発想を生み出す力」の3つの力が必要と述べられています。

しかし、学生が大学でそれら3つの力を身に付けるために示された方法論が浅薄に感じられたのは気のせいでしょうか。グローバル化への対応、多様性の受容、学際教育の有益さなど、いずれも重要なテーマであるものの、それらは大学で教えるよりも社会に出たほうが大切さが理解できると思います。

それに、新聞というかネット上のニュースくらいは、トイレの中か移動時間中に読んどけよ、と思うわけで、大学に行ってわざわざ新聞を読んでいるくらいならさっさと就職したら良いのです。

 

大学はリベラルアーツ(教養)を身に付けて新聞を読む前提となる知性を得る場所だ

学生にとって大学で読むべきものは「古典的名著」であり、それらを精読することでリベラルアーツを身に付けることが重要です。哲学や思想的素養を身に付けることを通じて、社会事象を正しく分類するための能力を得ることができます。

大学は専門的な技術知識、グローバルな感性、生涯の友人を得るだけでなく、異なる事象を貫く要素を分析・解析するための視座を身に付ける場所です。これらは学長が述べている「自己を相対化する視野」を身に付けることそのものですが、視座を得るための基本的な作法はある程度はメソッドとして確立しており、それらは訓練をしっかりと受けた大学教育者であれば教授することが可能だと思われます。

大学生に基礎的な教養がない状態でグローバル化やニュースを消費することを求めたところで、自分が何をして何を読んでいるか、ということすら実際には分からないはずです。

ニュースの字面をなぞってみたり、それに対する多様な意見を参照してみたり、ということは、縄文人が目の前の事象について色々な意味解釈を加えている行為と何も変わらず、人類が近代以降に発達させてきた知の体系を習うこととは全く別の事柄です。

大学とは人間の知の体系を教える場所であり、その意義について述べることが「学長に求められる本来の入学式の式辞」だと思います。学長の式辞は「知のプロフェッショナルを目指せ」という内容ですが、少々物足りなさを覚えたことも事実です。

変化が激しい時代であるからこそ教養教育の重要性が増している

目の前で様々な事象が起きるスピードが増して情報が氾濫する時代にあるからこそ、知の体系を学ぶ教養教育を受けたかどうか、ということが決定的な差を生み出すことになります。

瞬時に正しい判断を下して新しいコンセプトを生み出す力は、優れた教養教育によって決定的に基礎づけられています。そのため、今後は従来以上に大学で体系的に学習できるはずの教養教育の必要が増していきます。

多くの国内大学が職業専門学校化・就活予備校化していく中で、東京大学には最高学府としての矜持を保ってほしいと願っています。そして、日本の大学教育を高い教養を身に付ける場所として再定義していくべきです。