「天災」から連帯心を学んだ日本人

2016年04月21日 09:00

熊本県で14日から連日、地震が起きている。マグニチュード7以上の地震が既に2回だ。同じ環太平洋造山帯のエクアドルでも16日、1979年以来最大となるマグニチュード7.8の地震で多数の死傷者が出ている。

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▲日本の地震図(ウィキぺディアの「地震の年表」から)
赤:M7以上
青:死者有り
紫:最大震度6以上

18日には北アフリカからボートで欧州入りを目指した数百人の難民・移民が溺れ死んだというニュースが入ってきた。陸路でギリシャからのヨーロッパ入りの道が途絶えたことから、地中海からイタリア入りを目指す難民・移民が再び増えてきた。彼らは人身売買業者の手を借りてボートに乗って欧州を目指していた。

熊本・エクアドル大地震は明らかに天災だ。人知で回避できない災害だ。天災は突然くるから、時には多くの犠牲者が出る。天災は非情だ。待ってくれないし、説明もなく、襲ってくる。

神がいて、そして愛の神だとすれば、天災には意味がなければならない。神の気まぐれや怒りの表現ではないはずだ、という思いが湧いてくる。

一方、地中海の難民・移民の悲劇は回避できた人災だ。地中海の状況、ボートに乗る人数などを考えるべきだった。それ以上に、難民・移民をビジネス手段として暗躍する人身売買業者の責任は大きい。周辺国家は人身売買業者の取り締まりを強化すべきだ、

陸路の難民ルートでトルコが現在果たしているように、アフリカでも難民・移民の管理を担当する拠点を構築すべきだという意見がイタリアを中心に出ている。

天災の場合、犠牲者は誰に抗議し、その不運を訴えることが出来るだろうか。キリスト教社会では神が常にその責任を追及される立場だった。愛の神がなぜ無慈悲な災害を起こし、多数の人々を殺害したのか、といった神への抗議だ。また、なぜ神はその災害を防ぐことが出来なかったか、といった神の不在を追及する声が飛び出す。無神論者はその信念を追認する。

一方、人災の場合、その災害を引き起こした直接の関係者、会社、国がその責任を追及される。最近では、2014年4月16日、仁川から済州島に向かっていた旅客船「セウォル号」の沈没で約300人が犠牲となるという大事故が起きた時、救援活動よりも船舶会社への批判、ひいては政府批判でもちきりとなったことはまだ記憶に新しい。

もちろん、人災の中には天災的な要因もある一方、天災も人災が絡んで被害を更に拡大する、と言ったケースも考えられる。

天災の場合、怒りをぶつける対象は神しかいない。神を信じない人にとって怒りを向ける対象が見つからない。だから、天災後の犠牲者の心のケアが重要となる。多くの人は諦観に陥る。怒っても仕方がないからだ。それだけに悲しみを分かち合うことがより大切となる。

日本は地震大国だ。過去、数多くの地震の洗礼を受けてきた。だから、日本人には諦観心が強い。同時に、悲しみを分かち合う連帯感も生まれてきたのではないか。欧州人は怒りと悲しみを神にぶつけ、最後には神と和解するか、神から別れていく。一方、日本人は心に悲しみをしまい込みながら、耐え抜いてきた。欧州人の中には、天災後の日本人の規律の良さと冷静さに驚く声があるが、日本人は数多くの天災を通じて悲しみに耐える訓練を受けてきたからだろう。

熊本・エクアドルの地震で亡くなった犠牲者の慰霊と負傷者の早期回復を祈る。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年4月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

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