武田信玄は織田信長のライバルでなく協力者だった

2016年04月30日 06:00

織田信長が最も恐れた天下盗りのライバルは武田信玄だったといわれる。しかし、信玄にそんな実力もなかったし、むしろ、死ぬ半年前までは家康と並ぶ信長の協力者だった。ただ、信長が家康の方を優先したので反抗しただけなのだ。

信玄伝説が生まれたのは、武田旧臣の多くが徳川家に仕官して、軍学の先生などになったものも多く、「甲陽軍鑑」のような怪しげな軍記物語が流布してしまったからだ。

たしかに、徳川家康からすれば、三方ヶ原で敗戦するなど、もっとも長く苦しめられたのが武田軍団だが、信長にとっては同じでない。

武田信玄は父親から甲斐一国を引き継ぎ、ほとんど半生を今川氏の支援を受けて信濃攻略するのにに費やした。

ところが、桶狭間の結果を見て、今川義元の娘と結婚していた長男を廃嫡し、信長の養女を妻とする勝頼に代え、死の五年前には、今川氏から駿河を獲得し、総計で70万石になった。それに対して信長はそのころ350万石ほど領していたから敵にはならない。

さらに、遠江や三河の山間部に支配地域を広げようとして家康と対立していたが、信長が浅井、朝倉、本願寺、三好三人衆などを相手に苦しんでいるのを見て、西上作戦を始め家康を三方原で撃破したのが死のわずか半年前だ。

信玄は朝倉と信長を挟み撃ちにしようとしたが、朝倉軍が冬の到来を理由に近江から帰国したので、信玄は三河で越冬して春を待ったが、病に倒れ甲州へ帰る途中の信濃で死んだ。

姉川の戦いでも比叡山焼き討ちでも信長側に留まっていた足利義昭は、この信玄の死を知らず、挟撃作戦が成功しそうと、はじめて信長に反旗を翻したが、武田は動けず足利幕府も浅井・朝倉は滅亡した。

信玄の死を三年間隠したのち勝頼は、大軍を率いて三河長篠城を攻めたが、信長自身が出陣し武田軍団の精鋭部隊がほとんど全滅するという空前の大敗を喫した。

もともと、織田と武田では兵力が数倍違うので、平地で正面から戦ったら鉄砲などとは関係なく勝負になるはずなかったのである(鉄砲が役にたたなかったという意味ではない)。

その後、勝頼も上杉景勝と友好的関係を成立させたり、家康の妻と嫡男を籠絡するなどして粘ったが力尽きた。このとき、天目山で勝頼ととも死んだ嫡男信勝の母は、信長の養女(姪)だった。つまり、形式的には信長の孫だったのである。

そして、この軍勢を率いた信長の長男信忠の許嫁は、信玄の娘だった。本能寺の変がなかったら、この結婚は実行されていたかも知れない。東国平定のためにはなお悪くなかったのである。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学大学院教授

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