舛添、ベッキー、賄賂…自粛こそメディアの問題だ

2016年05月14日 12:55

舛添会見

観察すると分かる報道のおかしさ

13日に興味深いニュースが3つ伝えられた。舛添都知事が公的な政治資金を私的に使っていたとして謝罪した。東京オリンピックで招致活動の際に2億2000万円をコンサル料として、招致委員会が海外のいかがわしいオリンピックマフィアに支払った。これはバラエティ番組の領域だが、タレントのベッキーが不倫騒動後初めて、テレビに出て謝罪して泣いた。

それぞれのニュースは違うようで、観察すると共通点がある。

第1は、テレビ、新聞、通信社といった既存メディアが、第一報を伝えていない点だ。舛添批判は週刊文春の報道。オリンピック賄賂疑惑は英紙ガーディアン発だ。最近、政治がらみのスキャンダルネタは、文春と新潮など週刊誌に、既存メディアは「抜かれ」続けている。ベッキー問題は芸能ネタではあるものの、週刊誌発だ。記者クラブに人を張り付け、3 大紙は東京社会部80-100人程度、政治部に50−60人程度の記者・デスクがいる。これは取材力の低下を示すもので、とても恥ずかしい。正規軍がゲリラに負け続けるようなものだ。

第2は、重要な情報を伝えていない点だ。舛添氏批判が強まったのは1ヶ月前の韓国人学校の建設問題からだ。東京では保育園が不足しており、新宿区から同区にある都有地の保育・介護施設を使う要請があるのに、舛添氏は韓国人学校に提供する決断をして批判が強まった。韓国に配慮したのか、これは伝えられない。オリンピック賄賂では電通の関係会社が仲介したと海外メディアが伝えているのに報道では大きく取り上げず、直撃の取材も少ない。日本の既存メディアは、広告の営業を同社に依存している。これは露骨な情報操作だ。ただし稚拙すぎて、みんなに見透かされているのが滑稽だ。

第3は、メディアは弱いものに強いということだ。オリンピック賄賂疑惑の扱いは慎重だ。舛添氏の公金の使い方の雑さは前から伝えられたが、彼が批判されたのは世論の批判がすさまじいものになってからだ。ベッキーは、当初はそのままだったが、不倫でCMスポンサーがおり、それに応じてテレビが彼女を出演させなくなった自粛の連鎖が始まると、バッシングが始まった。中国に「水に落ちた犬は叩け」ということわざがある。報道の傾向として、そのように叩いても大丈夫な存在は徹底的に攻撃するのに、強い相手には立ち向かわない。とても嫌らしい。

 自粛と萎縮が問題だ

最近、「安倍政権がメディアに圧力をかけ、言論の自由が失われている」という主張を、一部のずれた自称ジャーナリストや海外のフリーランス記者が叫ぶ。それはあるかもしれないが、実態のごく一部にすぎないだろう。これらの例から見ても分かる。

今の日本のメディアの報道の問題は、自ら報道しない「自粛」と、リスクを取らない「萎縮」が目立ちすぎることだ。「正確な情報を先んじて報じる。それに伴う批判を引き受ける」という、報道の責務を放棄している。これは記者の仕事のおもしろみでもあるのだが、批判を恐れ保身に走っているようだ。「反撃される」「間違ったことを言い批判される」などの、トラブルを恐れている。以前のしかれたレールの上で萎縮した報道を続ければ、何も問題は起きない。

実は日本の場合、一番楽なのは国と行政批判だ。日本では、国家権力が世界の中では珍しく、なぜか激しい反撃をしない。「反権力」は見栄えがする。しかし本当に利害関係のある電通の批判とか、これまでの擁護の蓄積のある在日朝鮮・韓国人への過剰な配慮を是正する報道はなかなかない。

しかし、そういう無難な報道は、つまらない。パターン化し、ステレオタイプであるためだ。リスクを取る週刊誌報道が元気なのを見れば、読者の支持がどちらにあるのかは明らかだ。

一番大切な読者の信頼が失われる

こうしたことが発生する理由は複合的だ。大きな理由を一つ取り上げると「空気」、つまり社会的な場の雰囲気であると思う。メディアは、そういう空気をつくり、それに縛られていく。

私は自分で既存メディアの記者、雑誌編集者であったために、さまざまなしがらみの中で、自粛と萎縮が発生するプロセスは理解できる。新聞、テレビとも、それほど経営状況はよくない。余裕がない中で、トラブルを恐れるのは当然だ。

しかし既存メディアの立場から離れてフリーランスとなり、社会常識に基づいて問題を考えると、それは内輪の論理にすぎない、ばかばかしいものだ。今年3月にテレビキャスターらが、安倍政権の圧力を批判し、既存メディアの多くも好意的に報道した。私はそういう面が現時点では部分的にあるとも思う。しかし観察するとネット世論では、「偏向しているのに、何を偉そうに言っているのか」という、キャスターらへの意見がかなり多かった。こうした、不信感の高まりを、既存メディアに関わる人は真剣に反省した方がいい。

こうした姿勢を続けることで、報道にとって一番大切な存在である、読者の支持がなくなっている。報道に必要な面白さ、また自由な情報の流通のもたらす経済活動、そして民主主義の活性化もなくしている。私は記者活動の中で日本の「草の根」の質の高さに確信を持っている。内輪の論理に基づいて、既存メディアが動いていると、かならず賢明な一般の人々から、しっぺ返しを食らうだろう。

 ネットによる健全な批判の可能性

これまでと状況は違う。ネットの世論が、既存メディアとは別の形で成立し、存在感を日々増している。既存メディア会社と個人は、発信する情報次第では、存在感が対等になる場面も出てきた。たしかにネット情報は玉石混合ではあるが、これまで説明したようなメディア内のしがらみにとらわれない部分は面白いし、自由さが多様な考えを提供している。

私たち、情報の受け手は、30年前までそうだった情報発信者の独占的地位に居座るさまざまなメディア企業に、童話のように「王様は裸だ」「自粛や萎縮はおかしい」「抜かれまくって恥ずかしくないのか」と批判を続けるべきだろう。朝日新聞が14年秋に慰安婦報道の誤報を認めたのは、ネットを中心とした世論の反応を深刻に受け止めたためだ。

健全な批判は、このおかしい現状の情報流通、メディア企業の姿を変えていくはずだ。それに応じなければ…既存メディアは自滅するだけだ。

 石井孝明

ジャーナリスト

メール:ishii.takaaki1@gmail.com

ツイッター:@ishiitakaaki

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