人は適切な時期に死ぬべきか --- 小宮 自由

作家の曽野綾子氏の「高齢者は適当な時期に死ぬ義務あり」という発言が話題となっている。これは極めて難しい問題で、私もまだ確たる答えにたどり着いていない。人は適切な時期に死ぬべきか、すなわち「死ぬ義務」は存在するのだろうか。

私は生命を決して軽んじてはいないし、「死ぬ義務」のお題目のもと、ナチスドイツが優生学の名を借りて行ったように政府が国民の生殺与奪を握ることなど絶対にあってはならないと考えている。生存する権利は最重要な人権の一つであり、いたずらに侵害していいものではない。しかしながら、「死ぬ義務など絶対にない!」という意見にも完全に同意できるわけではない。判断が難しいケースもあるからだ。具体例を以下にあげる。

『製薬業界の不断の努力により、ある新薬が開発された。その新薬を使えば、がんの進行を抑止することができる(それがたとえ末期がんでも)。ただし、薬の効果は一月程度で切れるため、毎月忘れずに飲み続けなければならない。さらに悪いことに、その薬は特殊な製法を用いて作られており、一錠300万円かかる(年間で3600万円!)。つまり、他の原因で死なないかぎり、家族はその人の延命の為に毎月100万円支払い続けなければならない。』

「そんな薬、現実に存在しないじゃないか」「保険が適用されない前提なのはおかしい」等の意見もあるだろう。しかし、前者に関しては、それに近い新薬が既に開発されている。後者に関しては、先述のリンクを読めばわかる通り負担が国に転嫁されるだけである。もちろんこの薬に関してはまだ充分な臨床データがないので、今言われているほど万能ではないかもしれない。しかし、将来そのような「高額だがそれを使えばいくらでも延命できる」何かが発見される可能性は充分ある。

生命は重要であるが、だからと言って遺族や国(≒国民全体)に無限の経済的負担をかけていい理由にはならない。「人には死ぬ義務などない。生命は何よりも大事で、お金をいくらかけても守らなければならない」と考えているうちは、この問題は解決できない。

もっとも「死の義務」の存在を肯定したからと言って、この問題が解決するわけではない。上記の理由で「というわけであなたは死ぬべきなので、死を受け入れて下さい」と言われても、納得できる人は少数だろう。私も仮に今末期がんで死ぬべき旨宣告されたときに「その通りですね。そうします」と言える自信は到底ない。それが「死ぬ義務」を私が全面的に肯定できない理由だ。だからと言って、この問題を永遠に先送りすることはできない。

日本人の平均寿命は基本的に伸び続けており、今後も伸び続ける見込みだ。家計に対する負担も国家に対する負担もそれに伴い増大していき、どこかで必ず「死ぬ義務」の問題につきあたる。医学・薬学の発展により医療費が劇的に下がる可能性もないとは言えないが、現実的にはこれらの発展に期待しつつ、「死ぬ義務」に関しても議論しなければならないだろう。

私の母は、最近急逝した。まだ70歳を迎える前だった。長く苦しまなくてよかったと思う反面、一日でも長く生きていて欲しかったとも思う。しかしそのために月300万円かかったとしたらどうだろうか。私は聖人君子ではない、普通の人間である。おそらくは、しばらく経った後に「稼いだお金以上が医療費で消えていく。このままではとても生活できない。いつまで面倒を見続ければいいのだろうか。早く死んでくれればいいのに」と思うことだろう。後ほどその発想に関して罪悪感を抱く。そして自己嫌悪に陥り、それは苦しみとして心に長く残る。ついには耐えられなくなって自殺してしまう。母は自分のせいで息子が死んだことを悔やみ、投薬を拒否して一ヶ月後に死を迎える。

客観的に見れば、これは極めてナンセンスで不幸な結末である。先程も述べたとおり、国が医療費を負担してもこの問題は解決しない。高額医療が必要な家庭は年々増大し続けており、国がそれら全ての面倒を見れば社会保障費のさらなる増大を招く。その負担は将来の大幅増税で返ってくる。論理的には「死ぬ義務」の議論は避けて通れない。

誰だって死ぬのは怖いし、考えるのすら嫌だ。「死ぬ義務」なんて、話題にすらあげたくない。それは私も同じである。しかし、我々はそれを考えなければいけない時期に来ている。今必要なことは、「死ぬ義務」に関して意見している人を袋叩きにすることではなく、それに関して積極的かつ理性的に議論することだ。それは死ぬためではなく、現在及び将来の国民が幸福に生きていく為に必要なことである。

株式会社アットメディア 研究員
小宮 自由(こみや・じゆう)