沖縄人の日本人論 --- 小谷 高春

「沖縄人が日本人よりも日本人に見えるときがある」– 大学時代の友人より

アメリカのYouTube番組にUncommon Knowledgeというインタビュー番組がある。この番組を制作しているのはフーヴァー研究所だが、日本でその名を知っている人はごくわずかだろう。その名前からわかるように、アメリカ合衆国の第31代大統領、ハーバート・フーヴァーがこの研究所を設立した。その主な目的はフーヴァー大統領や第一次世界大戦、第二次世界大戦に関する大量の文章を保管することだが、その他にもいろんな活動を行っており、研究活動や公共政策に関する出版物を発行している。

このネット番組には毎回、豪華なゲストが登場する。有名な政治家や学者はもちろん、ノーベル経済学受賞者のゲーリー・ベーカーや合衆国最高裁判所の判事、アントニン・スカリヤなどが出演し、ドナルド・レーガンを尊敬する司会者と一時間あまりのトークを繰り広げる。

この前、その番組に出ていたのが歴史学者のニーアル・ファーガソンだ。彼の本は日本語にも翻訳されて、日本でも知っている人は多いと思うが、今回は彼の新刊「キッセンジャー:1923−1968:理想家」の紹介をかねて番組に出演していた。その対談の一部をここに引用させてもらう。


司会「(彼の本から引用して)四十五年の間に、キッセンジャーは多くのことを学んだ。意思決定者は自由意志を持っているが、不確実な状況の中でそれを行使しなければならないという決して単純とはいえない真実を学んだのだ。しかも大抵の場合、どっちの悪を選ぶかという選択肢しかない」

著者「キッセンジャーは大学在学中に、まだ大きな決断に迫られた経験がないにもかかわらず、意志決定について見事な洞察を得ていました。彼はそれを推測の問題と呼んでいます。あまり魅力的ではない二つの可能性に、あなたが直面したとします。すぐに行動を起こして災害を防ぎ、それに付随するコストを負担するか、もしくは時間を稼いで問題を先送りにし、運が良ければ災害は起きないかもしれない。外交政策に関する多くの決断もこれと似ています。

ただ問題なのは、たとえ災害を防ぐことに成功したとしても誰もそのことで感謝などしないということです。冷戦時代の大統領のおかげでアルマゲドンは避けられましたが、彼らは誰からも感謝されませんでした。民主主義の下では、たとえ災害を防ぐことができても報われることはありません。これが推測の中心問題です。キッセンジャーは別の問題も特定していました。悪と対立することがほとんど避けられないアメリカの意思決定者にとって、彼らが慣れ親しんできた母性やアップルパイ、そして他のものとうまく両立できるような選択肢はそれほど多くはないということです。その意味では、政治家は本質的に悲劇の人物なのです・・・」

司会「・・・彼はユダヤ教をほとんど認めず、アウグスティヌスやトマス・アクィナスの著作にも目を通したことはないけれど、ユダヤ・キリスト教と本質的には変わらない世界観に辿りついた。超越的な善のようなものを目指さなければならないが、我々は堕落した世界に住んでいるという世界観です」

著者「そうだと思います」


上記のインタビューに出てくる「堕落した世界」とは、どんな世界だろうか。我々日本人もときどきこの言葉を口にするが、ユダヤ・キリスト教の伝統のある国とは違った意味で使っていることは確かだろう。それを説明する前に、インタビューの冒頭に発言された「自由意志」の話から始めたい。

自由意志があるということは、悪を選択することが可能だという事だ。もし悪を選択することができないのなら、そもそも自由意志があるとは言えないだろう。そして我々が他人の意思を尊重する限り、残念ながら悪を選択する人も出てくるということになる。つまり我々が正しいことをしたからこそ、悪が生まれる余地ができたということだ。

翻ってこの日本には「自然」と「不自然」という思想がある。自然の秩序に従えば、おのずとこの世はうまく治まり、もし何か悪いことが起きたのならそれは自然のことわりに逆らって不自然なことをしたからだという考え方だ。この考え方が正しければ、事件や騒動が起きるのは”自然に逆らうもの”が存在するからで、それさえ除去できればこの世はもとの秩序を取り戻すことになる。

この考え方を持っている人たちには、「正しいことをしたからこそ悪が生じることがある」という発想は理解できないだろう。自然のことわりに従えば、この世はうまく治まると考えているのだから、もしそうならなければ不自然だということになる。この発想を国際社会に持ち込むと、各国が自然のことわりに従えば、世界に秩序が生まれるという事になるが、果たしてほかの国の人たちには理解できるのだろうか。自然か不自然かという図式で考える限り、自由意志を持った他者が存在し、悪を選択することもありえるという現実を受け入れることはできないだろう。

我々が堕落した世界に住んでいるということは、この世界は天国ではないということだ。天国ではないのだから、人の善意が必ずしも善を生み出すとは限らないのは当然のことだろう。キリスト教徒の山本七平氏が心理学者の岸田秀氏との対談の中で、「自分の善意が社会に通じないとき、社会を非難するのではなく、自分の善意を疑え」と発言をしたのも頷ける。

ユダヤの教えによると、神が人の前に現れないのには理由がある。それは人が神の存在に確信を持たないようにするためだ。人間が何かに確信を持つと傲慢になり、愚かなことをしでかすという戒めだそうだが、全知全能の神の存在ですら確信を持つことを許されないのなら、この世に確実なものは何一つ無いことになる。

自然のことわりを信じる我々日本人は、この「堕落した世界」でどう生きるのだろうか。

小谷高春  翻訳家
沖縄県在住