「二重国籍」問題が逆説的に示す日本の健全性

2016年10月08日 06:00

私は以前から西洋のリベラリズムがある種行き過ぎている感のあることを指摘してきたが、今回はもっと踏み込んで日本がいかに世界全体から見てイデオロギー的に「中立的」であるかということを、最近話題の「二重国籍」問題を軸に論じてみたい。

右の極み、ロシア連邦

まず、右の極。国籍に関して最も厳しい政策を取る国のひとつであるロシアでは、2014年以降公人はおろか一般市民も含むすべてのロシア国籍を保有しロシア領内に住んでいる者に対し、他国の国籍を持っている場合はそのことを移民局に報告しなければならなくなった。つまり「二重国籍」者のあぶり出しである。この記事によれば、「二重国籍者は無条件に(反逆者である可能性を)疑う」のがロシア政府のデフォルト姿勢である。ロシアほど政治性の強い国ともなると、二重国籍者に対し疑いの目を向けるくらいのことは「常識」であり、そんなことをするのは「差別だ」と言い立てる声は圧殺されるのかもしれない。

左の極み、西欧

反対に左の極である西欧の中でも最もリベラルな英国では、法律上「二重国籍」の者でも首相にでも何にでもなれる。また完全に無条件ではないとはいえ、少なくとももう片方の国籍がNATO加盟国であれば二重国籍者が英国軍に入ることも不可能ではない。無論、法律上不可能ではないというだけで、現実に二重国籍者が「歓迎」されるわけではない。アメリカも米国生まれの人間しか大統領にはなれないが、単に政治家になるだけであれば二重国籍でも法律上問題はなく、実際二重国籍者は多数いる。(保守派の国民は当然そのことに憤り、特にイスラエルとの二重国籍者に対しての風当たりは強いが、リベラリズムが国是のアメリカではあくまで少数意見にとどまる)

つまり、西欧では二重国籍者が政治や軍などの重要な公職に就くこと自体は概ね法律上認められており、しかも政治家や軍人の中に二重国籍者は少なくないのだが、だからと言って国民がそれを承服しているわけではない。にも関わらず、二重国籍者が公職に就くことを禁ぜよという主張は「hate speech」に該当するとして処罰対象にさえなるので、西洋では事実上要人の二重国籍を問題化するような形の議論は公にはできない。

つまり西欧と東欧では方向性が真逆だとはいえ、国籍問題に関して議論することは、東欧では反逆罪で処罰されるがゆえに、西欧ではヘイトスピーチ罪で処罰されるがゆえに、いずれの場合もできないのだ。

どちらでもない日本が実は最も中立的かもしれない

日本では、両方の意見が堂々と公共の場で提出されている。新聞でも左派の新聞は西欧寄りの主張をし、右派の新聞は東欧側に近い主張をする。左派は学歴と西欧の道義的権威に頼れるし、右派は大衆的支持と(場合によっては)経済界の権威に頼れる。左派陣営内部では右派的意見は粛清され、右派陣営内部でも左派的意見は抑圧されるかもしれないが、しかし右派と左派は互いを完全に壊滅させるようなところまでは攻め込まない。

日本は全体としては確かにどちらかといえば右寄りで、ロシアの世論に近い立場の世論が常に優勢だが、だからといって西欧の権威に基づくリベラルな主張が全くないわけでもないし、むしろ学界ではリベラルでない主張の方が悪目立ちしてしまうほど大学内はリベラル化されている。

つまり政治と学問がある意味綺麗に分かれてしまっているのだが、だからこそ政治は政治のやるべきことを、学問は学問のやるべきことをやれるのかもしれない。西欧では政治が学問化しており、東欧では学問が政治化するのが常態化しているが、日本はこの点バランスよく両者を区別し、お互いに自己の領分を守り他の領分を侵害しないようにしている。ある意味韓非子の教えによく従っていると言えるかもしれない。

そういう意味では、日本には西欧とは異なる意味での「言論の自由」があるかもしれない。というのも、西欧人がイメージしている「リベラルでない国」のモデルというのはロシアのような国である。ロシアのようにならない為にリベラリズムは大事だと言っているのだ。だが日本は初めからそこまで酷くはない。完全に「自由に発言できる」と安心できるわけでもないし、日常の様々な場面においても、西欧におけるほど自分の本能的欲望に従って好きなように行動できるわけでもない。だが、一定の倫理規範を守った上で行動する限りにおいては、日本でも十分に自由に行動できる。かつその倫理規範は東欧や回教圏におけるほど厳しくはない。また共産主義を奉ずる中国や事実上大統領の専制政治が行われているに等しい韓国よりも政治権力批判はある程度まで普通に行われているといえる。

私はそういう特殊日本的な「自由」の概念が実に興味深いものだと考えている。西洋的な自由の概念とも一致しないが、かといって「不自由」の概念とも一致せず、かつ他のアジア諸国と比べればあらゆる意味で圧倒的に「自由」であると言えるような、異形の「自由」。もっと具体的に言えば、「日本は西欧に比べて不自由だ!」という不平を堂々と公衆の面前で言えるし、しかも公衆はある程度までそういう発言に賛成してくれるという意味で自由なのだけれども、そういう発言が実際に出てくる程度に国民が「自由の欠如」を日常的に感じているという極めて矛盾した状態。

言わば、実際には存在しない「空気」のようなものによって皆が「自由」を抑制されるが故に逆説的に生じてくる「自由」。それは例えば、東京のような大都会で若く美しい女性が派手で露出の多い格好で真夜中に平気で出歩けるだとか、専業主婦が「夫の財布を握る」どころか夫をATM呼ばわりすることさえできてしまうだとか、あるいは大学の成績がほとんど全て「可」あるいは「C」でしかも何のコネもスキルもなくとも「人物次第」で大手企業に就職できるだとか、そういう場面で現実化するような「自由」だ。

二重国籍問題に話を戻せば、蓮舫氏は散々批判されつつも結局は政治家を続けるどころか民進党の党首として活躍されているようだし、舛添氏のように即座に辞職しなければならない事態に追い込まれているようには見えない。また批判サイドも別に蓮舫氏サイドやリベラル勢力から圧力を受けている様子は全くない。皆ある程度相手の「自主性」に任せている。

これが日本的「自由」なのだ。これに対して西洋基準を持ち出して、言わば「日本史に西洋史を書き込む」歴史学者の視点で「日本の自由が後退した」だとか「日本は遅れている」と言っても、国民からすればその程度の「不自由」は既に受け入れているから別に問題ない、何を騒いでいるのかという感想しか出てこない。

本当に「遅れている国」は他に沢山ある。例えば韓国では「親日的」と読める文章を書いたり「親日発言」をしただけで大学教授が職を追われるという。だが日本にはそこまでの緊張感はよくも悪くも存在しないし、右派も左派ももっとリラックスして自然体でいる。どんな思想の持ち主であれ相手が腐っても「日本人」であるという前提に基づく基本的な信頼感、またそれに付随する相互的敬意がこれを可能にしているのだろう。

アジア諸国の中では最も西欧的な意味での自由が保障されており、他方で西欧に見られるような「リベラルな政治的正しさ」の圧力が「西側」諸国の中で最弱という意味で、「アジア以上西欧未満」の中途半端な日本の主流政治イデオロギーの状態は、世界全体から見れば案外最も中立に近い「自然」な立場なのかもしれない。

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