日本の教育に欠けている英国的な「サボる」努力

2016年10月16日 11:30

この中沢良平氏の記事は大変興味深い指摘をしている。私は義務教育を公立小中学校で受けたが、私の小学校低学年時代はちょうど「ゆとり教育」への移行期であり、それ以降は完全な「ゆとり教育」であった。私が思い出せる限りでの自分の学校時代(1999年 – 2008年)を思い返してみれば、特に中沢氏が指摘している「掃除」が非効率性を象徴しているというのは若者世代としては実によくわかる。

他にも類例には事欠かない;「掃除」に始まり授業やその他の学習活動全般の非効率性、ゆとり時代に存在していた「総合的学習」の時間の不毛さ、「態度」重視の非生産性、写経を思わせるような単調かつ無意味な宿題(同じ漢字を十回ノートに書き「写す」など)、夏でもエアコンを使わず「扇風機」で済まそうという「節制」という名の「効率性」の強要、シャープペンの禁止、携帯電話や間食の持ち込み禁止、稀に行われる「体罰」(必ずしも直接の暴力とは限らない – 例えば「掃除」を一人でやらせるなどの場合もあり得る)、部活動における軍隊的精神の美化及び暴力、様々な要因によって成立する生徒間の「スクール・カースト」と教員の共犯関係が生ずる特定生徒に対する「賎視」等々。

これらの問題点は、日本で公立小中学校に通ったことのある人なら誰しもが薄々感づいているか、多少は思い当たる部分があると思う。だが上に挙げた問題点は全て日本独自のもので、私の知る限り英国及びフランスの公立学校には存在しない問題ばかりだ。

ヨーロッパの公立学校教育は、当然名門私立に比べれば劣るものの効率性があらゆる場面で追及されており、また特にフランスでは日本であれば「いじめ」られてしまうような「家庭の事情が複雑」な生徒に対する社会福祉制度が充実しているため、露骨に「ネグレクト」されているとわかるような子供は教員が気付き次第早急に支援を受ける。(そもそも明らかに虐待や「ネグレクト」状態にある子供を放置するのは違法である。)無論、「掃除の時間」などヨーロッパにはない。持ち物に対する制限もない。(尤もフランスではlaïcitéに反すHijabなどの宗教性のある持ち物を禁止しているしまた刃物などは当然禁止であるが、それらは学校独自のローカルルールではなく全ての公共空間に適用されるものだ。)「部活動」もないか、あったとしてももっと生徒側の自主的活動としての側面が強い。「スクール・カースト」だけは万国共通でどこでも見られるし、場合によっては「教員」が共犯化する場合もある。だがそれが「いじめ」に繋がるようなケースはごく稀だ。アメリカではコロンバインのような事件もあるが、少なくとも英仏に関してはそこまで事件化するのは稀である。

では、日本の学校はなぜ英仏の学校と違うのか。どうしてこの差ができてしまったのだろうか。私は、日本の学校内部の制度が戦前の国民学校時代から大きく変わっていないのがひとつの重要な原因だと考えている。

西欧では学校制度はM. Foucaultなどの社会学者や左派の指摘もあり、戦後大きく改善された。ところが日本では、「掃除」などの雑務を総力戦に伴う教員不足に対処するために精神教育にかこつけて生徒側に負担させるように仕向けた文部省の政策を、何故か戦後もそのまま保ち今日まで来ている。体育の授業における「前習え」式の整列や行進、また水泳の授業における「平泳ぎ」なども、元は学徒に対する軍事教練の一環であったものの名残だ。

不思議なことに左派はこの点をさほど問題視しないようだが、私個人としては憲法改正を唱える政治家よりもこの教育制度自体から「軍靴の音」を聞く思いがした。

この「軍靴の音」は、運動系部活動において最も最大化する。特に野球やサッカーなど、比較的プロ選手の人気が高く、練習量が多く、教員側にも熱意がある場合はそうだ。

無論、教員によっては現代のスポーツ科学に則った極めて効率的で優れたトレーニングを行う人もいる。だが、そうする必然性はない。そもそも部活動の担当者が当該スポーツに詳しい必要などないし、部活動自体がある程度教師側の自主性に任されている。

つまり部活動はほとんど教師のボランティア活動であり、だからこそその質は非常にばらつきがあるのだ。そして最悪の場合は死に至るようなケースもある。自殺やいじめでなくとも、単純に熱射病や水分補給の不足で肉体的に力尽きてしまうことが現実にあるのだ。無論、先月ニュースになったような部活を理由にした中高生の自殺も日本では決して珍しくない。

それらを現代のゆとり世代の「ひ弱さ」としてしまうのは、あまりに乱暴であろう。こういう意味での「強さ」が求められた時代も確かに過去にはあったろうし、現代でも「強い」方が「弱い」よりも様々な場面で有利なのは自明だ。

だが、「強さ」は必ずしも肉体的なものでなければならないとは限らない。日本の弱さは肉体的なものでも「やる気」や「態度」といった精神論的なものでもなく、もっと頭脳的なものだ。日本人の普通の社会生活のあまりにも多くの部分が、発生源のはっきりしない迷信や誰を利しているのかさえわからない精神論に圧迫されている。

しかも、それは現状の西欧リベラリズムの導入程度では逆に「多様性」の名の下に正当化されることはあっても改善されることはない。もっと根本的な改革が必要だが、その改革を可能にするような「合理性」そのものが日本の土壌にはあまり根付かない。

尤も、ここで私が「合理性」と呼ぶのは「手を抜くこと」を当然とするようなヨーロッパ的思考だ。かつこの思考は英国において最も極端に現れる。(英国料理の評判が悪い原因のひとつはこれだろうと私は思っている。)楽をしたい、面倒臭いことはやりたくない、だからこそ知恵を絞って誰もつまらない仕事をしなくても良いような方法を考える。この実に英国的発想から産業革命が成立したのであり、これこそが「合理性」の文化的背景だとするならば、この英国的発想は知的生産性には必須のものだ。

尤も、日本社会に行き届いた小綺麗さ、生真面目さ、料理の味の繊細さなどは、他方で有能な人々を自殺に追い込むような非合理性にかえって支えられている部分もあるかもしれない。そういう意味では、この非合理性が絶対的に悪で克服すべきだとは言えないし、そういう「欧米気取り」の「極論」は国民的コンセンサスも得られないだろう。

だが、学力の高さを生かして知的労働に従事している「高学歴」/「インテリ」に、肉体労働者の生産性を支える非合理文化を無理矢理押し付けても期待されるような成果はやはり出ないのではないだろうか。

日本人はアジアの中で日本が最も科学系のノーベル賞を輩出していることを誇りに思っているようだが、それは日本人の「勤勉さ」の素晴らしさでも証左でもなく、むしろ日本が他のアジア諸国に比べればまだ東洋的な「勤勉さ」から解放されているからこそ実現できたことではないだろうか。

湯川秀樹氏が愛読していたという「荘子」は、まさに東洋的な「勤勉さ」を思想的に支える「儒学」のイデオロギーを嘲笑し相対化しようとする、古代中国の思想の中で最も「自由」な発想を持つものだ。

「学問」に勤勉さが必要ではないとまでは言わないが、「研究」の前進の為にはむしろ発想を柔軟に保つための精神的「ゆとり」の方が必要であろう。そしてそれは大学の研究者だけでなく、あらゆる頭脳労働者に言えることであるはずだ。

その「ゆとり」は教科書を薄くすることによってではなく、むしろ教材を辞書のように分厚くし、一通り基礎を説明した上で、その中から興味を引く項目を自由に読ませることによって実現されるような「ゆとり」である。

東大生が民間企業の非合理性に殺されてしまうのが「非効率」の極致だと言えるなら、英国的な「ゆとり」の導入は全体の労働生産性を高めこそすれ低めることはないだろう。

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