「政治的に正しい」村上春樹と日本的反ユダヤ主義の関係

2016年10月21日 11:30

村上春樹氏が2016年度のノーベル文学賞を「逃した」ことを以って、改めてその原因は何なのかを探ろうという類の記事がネット上にも大量発生しているようだ。

その多くは人畜無害な文学論ないし村上文学論なのだが、私が最も気になったのはその中に時折ある種の政治的見解に基づく意見が見られることだ。

具体的には、村上春樹氏が2009年にエルサレム賞を受賞した際に「イスラエル政府を批判するような内容のスピーチ」を行ったことが、村上氏のノーベル文学賞受賞を阻んでいるという見解である。

もっとも、この見解そのものが問題的であるとまで言うつもりは毛頭ない。

私自身はこの時のスピーチそのものは政治的に見れば文学者として言える限界の範囲内で「政治的に正しい」見解を、イスラエル側に不用意に不快感を与えることなく提示したという意味で大成功だったし、その意味でこのスピーチはむしろ村上氏のノーベル賞受賞の可能性をぐっと高めたはずだと考えているが、これと異なる見解も正当であり得ると思っている。

だが、この「村上スピーチ」とノーベル賞に関して、インターネット上ではさらに踏み込んで村上氏がノーベル賞を受賞できないのは「ユダヤ人」ないし「ユダヤ資本」の陰謀であるとまで断定する論調もある。

私が気になるのは、この種の発言の中に垣間見える日本人の「反ユダヤ主義」(anti-Semitism) 的感情だ。

恐らく大半の日本人は本物の「ユダヤ人」や「ユダヤ教徒」を見たことさえ無い人が多いのではないかと思うが、それにも関わらず「ユダヤ資本」を「国際社会における反日活動」と結びつけて嫌悪するような異様な反ユダヤ主義を堂々と標榜するような書籍や発言が、日本のメディア上では普通に見られるのは実に不思議なことである。

もっとも、ヨーロッパにおいて日常的にヨーロッパ人と接する中で、ヨーロッパ人の中にある「反ユダヤ」感情の根深さに驚かされることは実はそれほど珍しくはない。というのも、現代西欧における「政治的正しさ」(political correctness)の教説は公式に「反イスラエル・親パレスチナ」の立場を採用しているからだ。

つまり、人種差別や性差別に反対し、さらには動物やAIの権利まで守ろうとする「弱者」を愛するヨーロッパ人でさえ、かつては弱者でありながら現在は頑として強者として振る舞い続ける「イスラエル」に対して実に冷たい視線を向けているのである。

実際西洋知識人の「イスラエル」に対する非難感情の激しさ目の当たりにすると、一部の西欧人の「政治的正しさ」に対する病的なまでの拘りは、それが彼らにとって克服しがたい「反ユダヤ」感情の隠れ蓑として使われているからではないかと邪推したくなるほどだ。

逆にイスラエルを原因とするパレスチナ等の難民が国内に流入することの方を嫌う「極右」勢力の方が、「イスラエル」や「ユダヤ人」に対して「寛容」であるという、20世紀初頭には考えられなかった状況が生じている。

実際、フランスにおいて極右思想家として著名なEric Zemmourは、当の本人がユダヤ系である。彼のみならず、Alain Finkelkrautなどのユダヤ系作家も時折「極右」扱いされており、実際彼のアカデミー・フランセーズ入りに反対した「政治的に正しい」知識人も多くいた。

長らくフランスの国民戦線の顔となっていたJean-Marie le Pen氏は伝統的な反ユダヤ主義を受け継いだ正真正銘の「極右」だったが、彼の娘で現国民戦線代表のMarine le Pen氏はまさに父親の反ユダヤ主義を非難して国民戦線から追放し、彼女自身は「反ユダヤ主義」に反対する姿勢を見せている。

このように、「イスラエル」の政策に賛成するか否かという国際政治の次元でなくとも、「ユダヤ人の思想家」の発言そのものが「リベラル派」から「極右的だ」と批判される一方で、「極右」側も従来の反ユダヤ主義を脱却してユダヤ系をむしろ擁護し、「イスラーム」という新たな脅威に対して戦う「戦友」と看做すようになってきているのだ。

実際、フランスでは過激派ムスリムによる意図的にユダヤ教徒を狙った殺人事件も相次いでいるので、ユダヤ人にとって「ムスリム」は普通の西欧人が想像する以上に現実的脅威である。

以上が西欧の「反ユダヤ主義」に関係する現状の概略だが、日本における反ユダヤ主義にはどういう文脈があるのか。

私には、日本人がそれほどユダヤ人を強く恨む明確な動機を持っているとは考えられない。無論一部にはEinsteinをはじめ、広島及び長崎に投下された原子爆弾の完成に関わった科学者の多くはユダヤ系であることを以って、本来反米感情として表出すべきものをむしろ反ユダヤ主義に転嫁している人もいるのかもしれない。あるいは日本の戦前以来の経済的苦境の原因全てを「ユダヤ資本」の陰謀に帰するという、まさにサルトルが Les Réflexions sur la question juive で定義した通りの20世紀西欧流の「反ユダヤ主義」を、ヒトラーの Mein Kampf などを通して日本の保守派が受け入れているのかもしれない。

だが、卑見では日本人は何よりも単純に「イスラエル」の中東政策が許せないのではないかと考えている。この現代において、貧困に喘ぐ部族集団間の紛争がくり返されるアフリカにおける戦争ならまだしも、先進国とほぼ同水準の文化、科学及び教育制度を持っていながら堂々と「する必要の無い戦争」を続ける「イスラエル」という国の存在が、「平和を愛する」憲法9条の素晴らしさを海外に宣伝することを通して逆説的に「日本の素晴らしさ」を主張したくてたまらない倒錯した愛国心を持つ和風リベラル派にはどうしても許せないのではないだろうか。

この和風リベラル派の「愛国心」は、西欧のリベラル派がリベラリズムを強調することによってかえってそれを受け入れない非白人を疎外するという逆説的「白人至上主義」と軌を一にする。

西欧のリベラル派は、過激派ムスリムの怒りの矛先が、西欧そのものよりも西欧のリベラリズムの圧力に屈して世俗化し「腐敗」してしまった「リベラル」なムスリムに対して向けられていることをほとんど無視している。

実際にはヨーロッパで最もムスリム数が多く、ムスリムの「同化」に最も成功し、世俗的で自由と平和を愛する「リベラル」なムスリムの数が最も多いのはフランスである。そしてだからこそフランスでばかりテロが起こるのだ。Charlie Hebdo以来、テロの原因はフランス人の「racisme(人種差別)」にあるとする声が日本でも後を絶たないが、反ムスリム感情だけならカトリックの総本山イタリアや東欧諸国の方がよほど強い。そういう事実を全く無視してフランスの人種差別を語るのは100%詭弁以外の何でも無い。

現実には、フランスはムスリムの世俗化に成功し過ぎたからこそ、その流れについていけない守旧派ムスリムの怒りを買っているのだ。また、一般フランス人に完全に溶け込めているムスリムが非常に多いからこそ、フランスはテロリストにとっても潜伏しやすいという戦略的理由もある。

この「差別される側」の心理を全く無視した空虚な正義論の本当の感情的根拠が相も変わらぬヨーロッパ人の反イスラエル・反ユダヤ主義なのであれば、これを必死に真似ようとしている日本のリベラル派が最終的にやはり反ユダヤ主義に行き着くのは理の必然かもしれない。

だが、もしそうならこんな悪趣味な正義を振りかざすことに反対することこそが知的良心ではないのだろうか。日本人はそこまで考えずもっと無邪気に戦争全般に反対しているだけかもしれないが、それでもこれが簡単に反ユダヤ主義的言説に繋がってしまうのであれば、私はZolaに倣ってこれを断固として弾劾する。

Les gauches antisémites, je vous accuse!

参照URL : https://www.contrepoints.org/2014/08/01/175500-lantisemitisme-de-gauche-na-rien-de-nouveau

 

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