ヴォルテールは嘘つき?仏歴史家が明かす寛容論の真実

2016年11月02日 06:00

Marion Sigautというフランスの歴史学者をご存知だろうか。彼女は現在フランスで最も人気のある歴史家の一人で、彼女の公演はいつも満席になると言われている。

彼女の公演を記録した動画はYouTubeにも複数上がっているので誰でも見ることができるが、彼女の研究が人々の興味を引くのは、彼女が現在の歴史学を支配している「啓蒙主義史観」の一掃を試みる「反啓蒙」の立場から啓蒙時代(Les Lumières)の歴史を研究をしているからだ。

特に啓蒙主義時代の哲学史上のヒーロー達の細微な事実にまで隈なく眼を通し逐一その実生活上の行動と彼らの名を世に知らしめた思想の内容の矛盾を指摘していく点に彼女の研究の魅力がある。

ヴォルテールの欺瞞

近年相次ぐイスラーム過激派の聖戦テロに対する反動としてフランス国民の間で徐々に広がりつつある「イスラム恐怖症」(islamophobie)と呼ばれる、左派曰く「人種差別的な反イスラム感情」。これを抑制しようという使命感あふれる知識人のしわざなのか、9月初旬頃に筆者がフランスに滞在した際にもヴォルテール(François-Marie Arouet, dit Voltaire)の「寛容論」がフランスの書店で大量に売られていたが、例えばこのヴォルテールこそフランス啓蒙主義を代表する「哲学者」の第一人者である。彼の遺体はルソーや「フランス革命」に貢献した他の様々な偉人達と共にパリのパンテオンに安置されており、フランスではまさに「啓蒙」の象徴として扱われている。また同じ言葉の繰り返しを嫌うフランス人は、例えば日本のことをJaponと呼ぶだけでなく、時にはNipponあるいはLe pays du Soleil-Levant(日出ずる国)などと言い換えたりするが、同様にla langue de Voltaireと言えばそれはフランス語のことを指す。これに因んでフランス人向けの「フランス語正書法」試験であるLe Certificat Voltaireというのも存在するなど、ヴォルテールは現代のフランス人のidentitéに深く関わる人物だ。

そのヴォルテールの名言として伝わっているものの中に、以下のようなものがある。

Monsieur l’abbé, je déteste ce que vous écrivez, mais je donnerai ma vie pour que vous puissiez continuer à écrire. (神父さん、私はあなたの書かれる文章が大嫌いですが、しかしそれでもあなたが書き続けられるために私は自分の命を賭けるつもりです。)

実はこの「名言」はヴォルテール本人が書いたものではないのだが、それでも「寛容」を説いたヴォルテールのイメージにぴったり合う比較的簡潔な文章だということで、事実上ヴォルテールの思想の神髄のようなものとして扱われている。

そんな「寛容」あるいは「表現の自由」の権化とでもいうべきヴォルテールは、しかし実は自分が気に入らない人間を何人もバスティーユ(=監獄)送りにしていた、とSigaut氏は述べる。Élie Fréronという文芸評論家は、ヴォルテールを批判したが為に何度も監獄送りにされていたのだそうだ。

ヴォルテールは結局自分自身の「表現の自由」の為には確かに敢然と戦ったが、自分の表現の自由を脅かす相手の「表現の自由」は、まさに自分の自由の為に犠牲にしていたというのである。

「寛容論」(Traité de la Tolérance)の嘘

また、このYouTubeの動画ではSigaut氏は「寛容論」のきっかけとなった「カラス家事件」(L’affaire Calas)は、ヴォルテールによるでっち上げであるということを資料に基づいて詳細に論じている。

Signaut氏によれば、ヴォルテールはフランスにおけるキリスト教カトリックの「狂信」(fanatisme)を糾弾する為に、本来宗教対立が直接関係しているわけでもない家庭の悲劇を「プロテスタント vs カトリック」の宗教対立が生む狂信の愚かさという話として紹介し、遂に金銭トラブルに端を発する家庭内の殺人事件を特に証拠もないのに本人の自殺であったと結論づけさせたのだ。

つまり「寛容論」という書を世に出す為にカラス事件はヴォルテールに歪曲されたのである、とSignaut氏は論じ、ヴォルテールは怪物であり、世紀の大嘘つきであると結論づける。

啓蒙思想とは何なのか

他にもSigaut氏の研究にはフランス革命史の「嘘」を暴くものなど興味深いものがたくさんあるが、こうして批判的な視点から啓蒙主義を見ることによってかえって啓蒙思想の性格がより良く見えてくる。

そもそも啓蒙思想は悪習と戦う「正義」の思想ではなく、伝統倫理を嘲笑する、宗教者から見れば邪悪極まりない危険思想であったのだ。むしろそこに啓蒙思想の悪魔的魅力があったとさえ言えるだろう。

ところが18世紀以降思想の倒錯に次ぐ倒錯が重なった結果、現代では啓蒙思想は「善」の側に立つ正義の思想に仕立て上げられ、かつて善の権化であった「宗教」の方がかえって「悪」の側に立たされている。

キリスト教倫理を振りかざす白人を人種差別主義者だと糾弾し、彼らにムスリムや東アジア人の倫理観を尊重せよと述べつつ自分自身は決して西欧の世俗倫理以外の如何なる倫理基準も参照しない「リベラル」の方が、外国人に偏見を持ちつつもキリスト教倫理あるいはヘレニズム世界のアリストテレス的倫理に従い伝統的西欧人として生きようとする古典的ヒューマニストより「倫理的に正しい」とされる謎の倒錯が生じている。

だが、果たして本来の啓蒙思想の売りは「倫理的正しさ」だったのだろうか?もしそうだとするなら、啓蒙主義は最初から自己矛盾しているということが、Sigaut氏の研究からもわかるだろう。

だが、もし啓蒙主義の魅力がその「悪魔性」にあるのなら、つまりもしヴォルテールは啓蒙主義思想の全てが邪悪だと知った上でそれを自分の欲望を満たす為に利用していたに過ぎないのであれば、その悪魔性は時代に応じて形を変え、弱者の “ressentiment”に覆われている「倫理」的西欧社会の底を「通奏低音」として流れ続けるだろう。

宗教を否定しつつも実際には(ニーチェによれば)司祭階級の仕事である「弱者をして己の無力の原因を強者の抑圧に帰せしむる」という大事業において一般の司祭の何倍もの成功を収めたユダヤ教神父の子カール・マルクスが書いた、現代の「弱者の聖典」と呼ばれるに相応しい「資本論」に流れる倫理的イデオロギーに心から共鳴する左派も、未だに迷信に迷い伝統の権威の下に全てを従属させようとする右派も、表向きは人当たりの良いリベラリストとして社交界で活躍している「現代のヴォルテール」達に鼻で笑われているのかもしれない。

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