リベラリズムがもたらした混沌を象徴するNYデモ

2016年11月13日 06:39

「トランプを大統領と認めない!」(Donald Trump is NOT my president!)と叫ぶ人々が、NYなど主にクリントン氏に投票した有権者の多い大都市で今でも継続して大規模なデモ活動を行っている。

その模様はYouTubeにあるCNNの抜粋でも見られるが、「トランプタワー」に実に大量の人々が集まり怒号を上げている様子がはっきりと映っている。

選挙後の苦しい言い訳

確かにデモが発生している大都市の有権者の半数以上はクリントン氏に投票したのだし、仮に大都市だけで選挙が行われていればトランプ氏が当選することはなかっただろうから、リベラリズムをイデオロギーではなく「常識」として受け入れている都会人の不満は大きいだろうとは予想できる。

それにしてもこの有様は酷い。トランプ氏が大統領になれば社会が混乱に陥るとリベラル派は言い続けていたが、このデモ映像を見る限り、まさにリベラル派が混乱を自ら作り出しているかのように見える。ドルの価値が下がる等といった市場の反応に関してはトランプ氏の政策の不透明性がもたらした負の影響だと言ってもいいだろうが、今社会を混乱させているのはどちらなのだろうか。

トランプ氏の勝利に対して、特にウィスコンシン州におけるトランプ氏の勝利に関して未だに「まだ完全に決まったわけではない。集計に誤差がある可能性もある」と往生際の悪いことを言っている選挙専門家もいる一方、選挙人の裏切りによって結局クリントン氏が当選する可能性もあるなどと無茶なことを言っている人々もいて、当初トランプ氏が選挙の結果を「完全に受け入れよう、もし私が勝ったなら、だが / I will totally accept (the election results) if I win」 と述べたことを子供じみた我儘だと嘲笑していたリベラルメディアは、この選挙結果を頑として受け入れようとせずデモを行ったり、「メディア」(それもトランプ氏に有利な報道など一切してこなかったリベラルメディア)が報道した選挙の結果を「専門家」の口を借りて疑ったり、選挙人の裏切りを助長したり、挙句に裏切りの際に生ずる罰金まで払うなどと軽口を叩いたりする一部の「リベラル」な民主党サポーター達の行動をどう説明するつもりなのだろうか。

特にトランプ氏側の選挙人が有権者の意思を無視して最終的にクリントン氏に投票することを期待している人々というのは、一体民主主義を何だと思っているのだろうか。

民主的に選ばれようと何だろうと、「おぞましくグロテスクな」(=進歩的でない)思想を持つ大統領の当選など受け入れないというのが、「大人」の政治に対する態度なのだろうか。

リベラル派の稚拙な態度が示すグローバリズムの陥穽

だが、私はむしろこのリベラル派の病的な自己矛盾の背景に、リベラリズムそのものが現実にもたらす混沌を見るような気がしている。

理論上、基本的人権や法の下の平等などの原則は簡単に否定できない一定の説得力を持っている。人種差別や女性差別が倫理的に完全に正しいことだと考えている人など、トランプ支持者の間でもごく少数であろう。

それでも、人種や性別の違いからくる「差」はそんなに簡単に解消されるものではない。建前の上での平等と現実に消えない「差」の溝は、「反差別主義」が過激化し、もはや「差」そのものが「存在するべきではない」のではなく、既に現実に「存在していない」という誤った認識をもたらし、しかもその認識と矛盾するあらゆる事実を感情的に全て否定し封殺する「政治的正しさ」が横行するに至って愈々深まるばかりである。

そのことには女性も、同性愛者も、有色人種も、移民も、回教徒も、全ての「マイノリティ」達も既に気づいている。気づいてはいるが、そのように考えること自体が既に後進的であり、非現代的であり、従って有色人種的であり、非白人的であり、劣等なのであるという価値観が広がっている中では、自分の立場を不利にし不用意な誤解を招きかねない発言は控えざるをえない。

こうして自分たちの自然生得的アイデンティティを否定することを強いられた人々は、かといって本物の「白人(男性)」にもなれないまま「根のない」(déraciné)人間として生活している。この無数の「新欧米人」達の不安と混沌。

欧州で生まれ、欧州に育ちながら、自分のルーツを回教に求めてシリアへ渡ったDaeshの戦士達は、まさにこの漠然としたどうしようもない「壁」を破壊するために戦いつつも、何をすれば良いのかわからず文字どおり自爆しているのではないのだろうか。

同様の不安は、「リベラリズム」という空虚な夢が壊れ、いざ危機が迫れば白人は白人同士で結束する、白人の伝統に回帰するのだということをトランプ氏当選を通して目の当たりにしている今、アメリカの全てのマイノリティ達も感じているかもしれない。自分たちには、リベラリズム以外に何もなかったのだと。自己の存在を規定しそれに意味を与える、より強固で安定的な文化的支柱が知らぬ間に失われていると。

しかし、それこそが今までリベラリズムが目を背け続けてきた真実である。リベラルな世界には、西欧近代の伝統以外には何も存在しない。有色人種の文化は、大きく歪められた形で、標本的に存在することしかできない。

日本で例えるなら、「グローバル化」した世界には、あのぐちゃぐちゃのとても食欲をそそるとは思えない外国風の”Sushi”以外の寿司は存在しないということだ。当然その他一切の和食はRamenやKatsu-donなどの一部を除き存在しない。日本の文化といえばBushidoとSamuraiであり、身を粉にして働く(ことでグローバル経済に貢献してくれる)サラリーマンの生き様こそが「日本の素晴らしさ」であり、花鳥風月を愉しむ「幽玄」のこころは豪華絢爛な美術館の中に閉じ込められて封印される。日本の文化はHaruki Murakamiや「漫画」、「jpop」や「hentai」ポルノあるいはピコ太郎氏の動画が代表しているのであり、山家集や方丈記、枕草子や徒然草などの古典は勿論、小林秀雄や中原中也でさえ読まれない。

そんな「日本」でいいのだろうか。リベラリズムの言いなりになってグローバル化に流されているだけでいいのだろうか。

この惨めで悲壮な反トランプデモが「グローバル・スタンダード」であるリベラリズムの成れの果てなのであれば、私はとても日本の文化面における「グローバル化」を支持する気になれない。

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