日本における「ポリコレ」に反対できる人はいるのか

2016年11月17日 06:00

私は今までPolitical Correctness(以下PC)については英語圏及び西欧のそれを中心に考えてきたので、日本人の一部有識者の間でPCが「ポリコレ」と呼ばれていることさえごく最近知ったことであるし、日本における「ポリコレ」の実態に関してはこれを直接考察の対象にした研究もメディア上における「言葉狩り」等の特殊事例に関するものしか眼にしたことがなく、個人的体験に基づくぼんやりとした認識しかない。

だがトランプ氏が大統領に当選したことで彼が敵視していた「PC」が最近日本でも徐々に話題になりつつある。そこで今回は試論として日本の「ポリコレ」とは何なのかを検討してみたい。

西欧におけるPCとは?

まず、西欧ではPCと言えばリベラル派の専売特許である。Southparkなどの子供向けアニメでも屢々皮肉られているが、例えば”Modern Educayshun“というYouTubeの動画などは端的にPCの滑稽さを非常にコミカルな形で上手く表現している。

動画を見ていただけばわかるように、西欧のPCのテーマとはmulticulturalism (多文化主義:問い 1+1=?  の答え)であり、gender equality (「性」の平等:問い 3×3 =? の答え)であり、privilege(人種差別や性差別などに起因する社会的特権、あるいはもっと簡単に言えば白人男性であることの特権性)である。従って白人男性で、自己を性的に男性であると認識し、女性に対して性的興味を持つ人であれば社会的特権を最も生得的に持っているとされ、privilege pointsを減点される。逆に黒人やアジア人の女性で、自己を性的に男性であると認識し、性的対象が女性に向いていて、貧困家庭出身で、ムスリムで、両親が離婚していて..などと様々な「社会的に恵まれない」とされる要因を持っていればprivilege pointsを加点され様々な優遇措置を受ける。

無論上の動画はカリカチュアに過ぎないが、現実にアメリカにはAffirmative Actionという制度が存在しており、Affirmative Action制の下では実際に例えば黒人の女性は白人男性と比べて入試の際に比較的有利になり得る可能性がある。アメリカやイギリスなど、進歩的な国々ではPCを実現する為の肯定的差別(positive discrimination)は現実に制度化されつつあるのだ。PC = affirmative actionというわけではなく、affirmative actionに反対するPCリベラルも少なくないが、Affirmative ActionをPCの理念で正当化するリベラリズム信奉者は最もわかりやすい西欧的PCの事例であろうとは言える。

日本にはPC/「ポリコレ」は存在するのか?

だが、西欧的PCはあくまで多数の異なる人種の人々が集まる西欧においてこそ生ずるものであり、外国人といっても基本的にアジア系(の中でも中国人や韓国人など、日本人との見た目上の差が極めて小さい東アジア系)が大多数を占める日本では必然的に「ポリコレ」の焦点は異なるだろう。

まず、西欧のリベラリズムの流れと親和的なタイプの「ポリコレ」は、日本ではまず反部落差別、反犯罪者差別、反中華系・朝鮮系差別、反女性差別などといった形で現れているように思われる。また反学歴差別、反「片親」差別、反「ハーフ」差別、反年齢差別、反被曝者差別、反同性愛差別などさらに細かく分類された特殊日本社会的な差別に反対する場合もあるが、いずれにせよ日本のリベラルな「ポリコレ」は朝日新聞などのリベラルメディアによってある程度推進されているとはいえ、現実には「インテリ層」あるいは下手をすればアカデミズムの内部の中でのみ常識化しているに過ぎず、企業の採用の現場や日常生活の中では上述の「差別」は事実上「空気」として「何となく」、しかしはっきりと存在している。

就活生にとっては暗黙の了解である学歴差別の現実(大学名によるフィルタリングや説明会の予約枠の違いなど)や、ひと昔前なら反共的な思想調査や身元調査を行う企業もあったという噂、「在日」や「部落」(あるいは不良地域出身)というレッテルの持つスティグマ性、また「一浪一留以上は不可」などの企業慣行は今日の若年層にもはっきり認識されている。近年では「生活保護」や「ニート/引きこもり」などもある種の「保護」対象としてリベラル派に認識されるようになりつつある。

だが、果たしてこれらの「差別」は一般社会で問題視されているのだろうか。むしろ「仕方のないもの」として消極的に肯定されている部分もあるのではないだろうか。以前、日本のPCあるいは「ポリコレ」はリベラリズムが要求する倫理観よりも日本の伝統的倫理観に基づいているのではないかという指摘を簡単にしたが、特に「差別」という点に焦点を絞った場合、日本のメディアや政治、社会的世論の動向においては「反差別」を掲げるよりもむしろ「差別される」側の自助努力を評価する方がより「政治的に正しい」と認識されているように思われる。

このひとつの典型的な例はメディアの乙武洋匡氏の取り上げ方である。彼は当初日常生活を著しく困難にする障害を抱えながらも絶望するどころか他人に頼ることさえ良しとせずなるべく自力で生き抜こうとする、まさに日本的道徳を自ら引き受ける素晴らしい人物として紹介されていた。近年の不倫騒動でその評判に影が差してしまったが、しかし障碍を抱える人に対する世間の冷たい嘲笑の眼を批判するどころかリベラルメディア自体がそれに便乗するような形で乙武氏クローズアップし、乙武氏の道徳性を賞賛する姿はまさに日本的「ポリコレ」がどういうものであるかを端的に示していたのではないだろうか。近年の彼の不貞行為やその後の対応に対するバッシングも、まさにその賞賛が彼の日本的道徳観との親和性に根拠があった為により一層強くなったように思われる。

日本では「ポピュリズム」はさほど危険ではない、が。。

だとすれば、そもそも西欧的PCは日本的「ポリコレ」から見て政治的に正しくないのであり、むしろ自力で稼いだお金で自費で選挙を戦ったトランプ氏の方がよほど日本的「ポリコレ」から見て政治的に正しい。従って日本人がトランプ氏を応援する感情を持ったとしてもそれはポピュリズムというよりは伝統的倫理に基づく「理性的」判断であり得る。

また、そもそも例えば小泉純一郎元首相はかなり典型的なポピュリストに近い行動をとっていたが、誰が彼を西欧人がトランプ氏を見るような眼で見ただろうか。あるいは自分の市長としての給与を大幅にカットした名古屋市の河村たかし氏は正に「大衆の期待を裏切らない」というポピュリスト的倫理を徹底したが、誰がそういう「ポピュリズム」を「危険だ」と批判しただろうか。

そう考えれば、ポピュリズムは日本では完全に肯定されている手法であるといえなくもない。むしろポピュリズムに対置されるエリート主義の方がよほど批判されているだろう。エリートでなければ大衆からも信用されず、ポピュリストが徹底的にバカにされる西欧社会の現実は日本の現実とはほとんど真逆であると言って良いほどだ。

だが、そんなポピュリズムの横行する日本の政治は西欧人が心配するほど不安定だろうか?確かに西欧ではあってはならないものとされるあらゆる種類の差別が平然と存在している。だが、それでも日本の治安は安定している。経済も安定している。トランプ氏が当選したというだけのことでまだ何も政策を実行に移さないうちから暴動に近いデモ集会が起こってしまうアメリカとは日本は違う。

日本の政治が不安定化するのは、経済不況が続いた場合でもなければポピュリズムが横行した場合でもない。エリートに教えられ大衆が内面化した「倫理」が暴走する時である。集団の狂気という点でいえば、愛国倫理が生んだ翼賛体制、共産主義の理念が生んだ赤色テロ、宗教的倫理への時代錯誤的回帰が生んだオウム真理教事件。また個人が「倫理」的に振る舞うことへの期待が生む悲劇という点では、会社への忠誠倫理が生み続ける過労死や自殺、家庭内倫理の原則が秘匿してしまう家庭内暴力や児童虐待、学校倫理から弾かれた学生の不良化や引きこもり化、あるいはいじめや自殺による脱落現象など、今日でも依然改善されているとは言い難い特殊日本的社会問題は決して少なくない。

そういう意味では、日本の場合は「政治的正しさ」云々よりもまず大衆の持つ「正しさ」の観念を相対化することから始める必要があるだろう。大衆が自ら自己を苦しめる、大衆の大衆によるマゾヒステックな自殺を止めなければならない。それが、日本において「ポリコレ」に反対するということではないだろうか。少なくともトランプ氏の「ポピュリズム」は、日本においてこれら一切の「正しさ」に反対することと同程度の緊張を孕んだ危険な賭けだったはずである。

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