「不安」はどうして生まれてきたか

2016年12月11日 11:30

2016年はまもなく幕を閉じる。過ぎ行く年を振り返る時、米大統領選、英国の欧州連合(EU)離脱を問う国民投票、そして欧州に殺到した難民・移民問題でも、それに対峙した国民には、自信よりも不安、確信よりも不信が支配的だった。換言すれば、近未来への限りなき不安と不信が大きな影響を及ぼしてきた一年だったように感じる。

科学技術は著しく発展し、人工知能(AI)は職場にも及び、激しい労働から人類を解放する日は既に到来したが、その社会に生きる私たちは決して喜びと幸せに溢れた日々を過ごしていない。不安と恐れを感じながら、息を潜めながら、来るべき未来に思いをはせている、というのが私たちの現実ではないだろうか。

不安や恐れは非常に原始的な感情だ。人類はその不安と恐れから逃れ、それを克服するために腐心してきた。そして科学技術の発展した21世紀、外的には不安と恐れを払しょくできる環境圏にいるが、克服したと考えてきた不安と恐れが私たちの日々に戻ってきたのを感じるのだ。

「不安」に対抗するために、人はさまざまな方法を考え出した。酒を飲み、麻薬に手を出したり、さまざまな享楽に耽る。それでも「不安」は消えない。「不安」は益々鋭利な刃物のように魂の奥まで差し込んでくる。「不安」を煽り、それをビジネスとするポピュリストも生まれてきた。政治家だけではない。不安が商売の道具となるケースも少なくない。

そこで「不安」について考えてみた。人間の遺伝子の中に「不安」が刻み込まれているとすれば、「不安」と対抗しても勝ち目がない。せいぜい「不安」と共存するしか道がない。個体の自己保存への不安だ。それはモルモットから人間まで等しく保有している。しかし、人類を悩ましてきた「不安」は自己保存本能によるものだけではない。

「不安」の起源を考えてみた。旧約聖書「創世記」には「不安」がどこから起因したかをいつものように象徴的に記述している。
神はアダムとエバに「取って食べてはならない」という戒めを与えたが、人類始祖はその戒めを破り、取って食べた。すると、アダムとエバは自身が裸であることに気がつき、恥ずかしく感じ、下部を無花果の葉で覆ったという。その時、神が現れ、「アダムよ、エバよ、あなたがたは何をしたのか」と問う。アダムとエバは神の声を聞いて、恐れ、不安を覚え、隠れようとしたというのだ。これが人類最初の「不安」という感情の発露だったわけだ。

アダムとエバは「エデンの園」で生活し、未来への不安など感じることなく生きていた。仕事を失うのではないかといった心配も、体の調子がおかしくなって病気になるのではないかといった懸念もなかった。すなわち、彼らは現代人が直面している「不安」や恐れからは程遠い世界で生きていた。そのアダムとエバが神の戒めを破った直後、神の声を聞いて「不安」を覚え、身を隠したというのだ。

興味深い点は、アダムとエバが初めて「不安」を感じた時の反応だ。一つは自身を隠す。2番目は神の戒めを破ったという罪意識を他の責任に転嫁するということだ(キリスト教では、アダムとエバの罪はその後の人類の罪の起源という意味から「原罪」と表する)。アダムとエバが不安を感じた後に取った反応は、21世紀に生きる私たちにも確実に継承されていることが分かる。

「不安」という感情が神から離れたことから生まれてきた感情とすれば、「不安」を克服するためには、神に帰り、神と和解する以外に道がないという結論になる。

唯一神の「神」と縁が薄い日本人にとって、上記の話は単なる神話に過ぎないかもしれないが、何が善で、何が悪かを神を持ち出さなくても人は本来知っている。その意味で、絶対的善からの離反が不安をもたらす、と言い換えてもいいかもしれない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年12月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

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