そもそも日本の政治家は「バカ」なのか?

2016年12月31日 06:00

日本の「政治」あるいは「政治家」を海外のそれと比べて批判する声は、戦後一貫して「通奏低音」どころかロックにおけるギターのごとく「日本政治」を語る場で常に欠かせぬものとして存在している。

どうしても日本を西欧と比較してしまう日本の知的風土

マルクス主義系左派、リベラル派、穏健右派、国粋右派等、日本における政治思想的立場には多種多様なものがあるが、基本的にはどの立場の者であろうともおよそ戦後日本の政治について語ろうとする者が「外国」の政治について一切言及しないということはありえない。左翼やリベラル派など、その思想的立場そのものが西欧のイデオロギーに由来する場合は言うまでもないが、右派や国粋主義者でさえより保守的な政治を行う西欧の先進国を常に参照し、時には自己の国粋イデオロギーそのものを皮肉にも西欧の保守思想を通して権威づけるということさえ行う場合もあるほどだ。

例えば、戦前の平泉澄氏はその著書でよく英国のエドマンド・バークを引用しているし、バークの思想を高く評価していたりもする。平泉氏に対してはひとつ下の世代の丸山真男氏などの所謂「戦後民主主義」を主導した旧リベラル派などから奇矯な「皇国史観」の唱導者であると批判され、例えば丸山氏はその著書で平泉氏が東大における日本史の講義で「足利尊氏は国賊であるから『尊氏』と書くのは誤りであって、「高氏」と書くべきである」云々と述べたエピソードなどに言及しているのはご存知の方も多いだろうが、その平泉氏でさえ実際には日本の偉人や古代中国の漢籍のみを権威の拠り所にしていたのではなく、西欧の保守思想をも丁寧に読み込み場合によっては高く評価する程度には「西」に対して開けた「リベラルさ」を持っていたのである。

ちなみに今日でも日本の保守派に根強い人気を誇るバークは西欧の政治思想史の文脈では「リベラル保守」の原点とされており、これ以降英国の「保守主義」は他国のそれと比べてより「リベラル」な方向へと進んでいくが、それ故バークの功績は保守主義の再興にあるというよりもむしろリベラリズムを英国の「伝統」と位置付けて保守主義の論理で擁護したという点にあるという風に読まれることが多い。つまり日本における「保守主義の父」としてのバークの評価とは若干温度差があるのだが、それでもバークの思想は日本で日本的な保守主義を擁護する際の権威としても使われ得る要素を持っているので、別にそういう読み方をすることに問題があるというほどではないからここではこれ以上触れない。

いずれにしても、以上のようにこれまで多数の知識人から「頑迷固陋」と評価されてきた保守主義者の中の保守主義者とも言える平泉澄氏のような知識人でさえ西欧の権威を参照するのに吝かでなかったという事実は、今日のように「グローバリズム」全盛の時代において日本のあらゆるものを海外のものと比べて批評するという行為は愈々人口に膾炙し止まる所を知らない現状を暗示していたかのようである。

既に西欧が日本より無条件に優れていると言える時代は終わった

とはいえ、実際のところ日本の政治家は本当に海外の政治家に比べて「愚か」なのであろうか。近代西欧が生んだ共産主義、リベラリズム及び保守主義という三つの政治イデオロギーの全てが見事に失敗し崩れ去っている現代において、これまでのように西欧的な「真のマルクス主義思想」「真のリベラリズム」あるいは「真の保守主義」を体現する人物が日本にいないからというだけの理由で「日本の政治家はダメだ」というのはもはや意味がないのではなかろうか。

現代の西欧ではよく言われている通りあらゆる旧思想の崩壊が進んでおり、この状況を何と表現していいのかわからず困惑している知識人達はとりあえず目下のところでは便利ではあるが中身のない「ポピュリズム」という罵倒語で以ってこの思想の崩壊状況を形容することでひとまず手を打っている状況であるが、ポピュリズムという言葉の範疇はあまりにも広く、しかもポピュリストなら日本にも昔から既に多数の実例が存在するので態々西欧のポピュリストを真似る必要はない。

むしろ大衆とポピュリスト的な政治家にどう対処していくかという現実的な戦略的知識に関しては、日本のリベラル派が長年培ってきた蓄積がある分「ポピュリズム」の流れに日本の知識人が動揺することはないであろう。またポピュリズムを実践する政治家の立場から見れば、思想に頼らず地に足のついた現実政治を行うという点に関しては、自民党政権や無数の地方政治家個人が積み重ねてきた実戦知の蓄積がある。

日本政治の伝統の価値

確かに日本の政治家にはアメリカ的な派手なパフォーマーはほとんどいないし、フランス的な思想性もない。英国的な気品やエリート的な行儀の良さが政治家のトレードマークになっているわけでもないし、ロシアや中国のように狭い富裕層サークルのみで構成されているわけでもない。日本では有名で人気さえあれば政治に何の関係もないスポーツや芸能などで活躍してきた人でも国会議員になれる一方、貴族的な世襲政治家達が一定の共通規範を特的の教育機関を通して再生産しているわけでもないので英国のオックスフォード大におけるPPEのような「如何にも世襲エリート」というトレードマークが存在するのでもない。

この状況こそ、「人気至上主義」という意味でポピュリズムの極致とでも呼ぶべきもののように思われるが、英国でリベラリズムが伝統化しているのと極めて類似した形でポピュリズムが伝統化している日本では、このポピュリズムの徹底が逆にポピュリスト(人気者)達に大変厳しい道徳的制約を課している。名古屋市の河村たかし市長に見られるような、トランプ氏のように特に大金持ちとして知られているわけでもないのに「庶民」と同じ地位に自らをおく形で自分の市長報酬を削減したり常に庶民との距離を近接に保つ努力はこのわかりやすい一例であるが、小沢一郎氏が2014年の選挙時でも雪が降り積もる中地元の岩手県で「ビール箱」の上で選挙演説を行うなど、「ドブ板」的な地道な活動をいまだに行なっていることなども、「ポピュリズム」を日本で実践するということが如何に骨の折れるものであるかをよく表現している。西欧ではポピュリズムに走ることがリベラリズム(あるいは保守主義/共産主義)の課す道徳規範からの「逃避」であると受け止められ否定的に評価されがちだが、日本では上述のような現実のおかげもあり逆に「思想」に走ることが「ポピュリズム」の課す道徳規範からの「逃避」であるとされるのだ。だからこそ「インテリなんて信用できない」と考えられやすいしアゴラの早川氏の言葉で言えば「国会議員は、足を使って様々なことを学ぶもの」という「庶民との近接性」が重視される。

そういった「地に足のついた」政治家を育てようという日本的風土は、これまで散々指摘されてきた無数の弊害もある一方で、結果として今日の日本を、現代西欧を襲う様々な惨禍から救っている。前回記事で紹介した通り、最近悪化が危ぶまれているとはいえ今でも日本の治安は他国に比べれば奇跡的なほど良い。日本の少子高齢化という人口問題の深刻さを考えれば、リーマンショック後の経済不況時にもっと大規模に移民を受け入れるという政策が実行されても不思議はなかった。特に与党が自民党ではなくより政治的に「リベラル」でしかも経済的には自民党と同程度かそれ以上に新自由主義的な傾向を持つ人を多く抱える民主党政権時であれば移民政策が実行に移される可能性は非常に高かったはずだ。それでも日本のポピュリズムはそれを許さなかった。「目先の利益に誘導され理性的にものを考えない大衆」は目先の経済的利益よりも「治安」を選んだのである。

西欧における政治がイデオロギーを軸にした倫理規範とそれに対する反抗的拒絶としてのポピュリズムの台頭という文脈における「ポピュリズム」批判を、日本の政治のポピュリズム批判にそのまま流用するのは従ってWittgensteinの指摘する「哲学者」にありがちな言葉を抽象化し本来使われるべき文脈の外で使用することの誤謬を犯すことになるだろう。日本ではポピュリズムそのものが倫理規範を構成するバックボーンなのであり、これに反対する方がかえって倫理の崩壊を招きかねない(赤軍テロや2.26事件などはこの例であろう)。そういう意味で日本政治の「伝統」にもそれなりの価値があるのであって、それがポピュリズム的だからといって簡単にバカにし否定してしまって良いほど軽いものではないのではないだろうか。

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