左派によって歪められた「ポピュリズム」の実像

2017年01月05日 06:00

最近ポピュリズムに関する議論が活発であるが、アゴラ渡瀬氏のトランプ流ポピュリズムを肯定的に見るポピュリズム擁護論と、アゴラ池田信夫氏のハイエクを基にしたポピュリズム警戒論は特に興味深い。というのも、渡瀬氏の擁護論は言うまでもなく、池田氏の警戒論も左派流の政治的に正しい「反ポピュリズム」論とは一線を画しているからだ。ここでは両者の議論を前提に、私のポピュリズム理解を提示したい。

リベラル左派の歪んだ「反ポピュリズム」は今日も健在

まず、ポピュリズムという語が現代西欧でどのように使われているかについて簡単に述べよう。例えば、フランス社会党の予備選挙候補者の一人であるVincent Peillon氏などは先日、今日のフランス在住の回教徒の置かれている立場はVichy政権下のユダヤ人のそれと類似しているなどと述べた

彼はまさか当時のユダヤ人の一部にユダヤ教の教義を曲解し世俗化したユダヤ教徒を含む一般市民に対する無差別テロを組織的に行なっていたと言いたいのではなく、単純に今日の回教徒は当時のユダヤ人と同程度に何の罪もない人々の集団であり、反回教主義(islamophobe/anti-islamisme)は反ユダヤ主義(antisémitisme)と同程度に唾棄すべきものだと言いたいのだろうが、この発言に不快感を覚えるユダヤ系フランス人がいたとしても何の不思議もない。

つまり、ホロコースト時代のユダヤ人と現在の欧州における回教徒が「同じ」であるなどというのはホロコーストの存在を否定するのに匹敵するほど当時のユダヤ人に対して失礼であるかもしれないということだ。そもそも、左派は一部の回教過激派の間で昔の西欧における以上に苛烈な反ユダヤ主義発言が横行しており、トルコを始めとする回教国でヒトラーのMein Kampfが大流行しているのみならず、実際に「ユダヤ人」を狙った暴力犯罪が頻発している(だからフランスではシナゴーグ周辺を警察が護衛している)ことについてどう思っているのだろうか。

だが、そんなことは左派にとってはどうでもいいのだろう。とにかく彼らは今日でもあらゆる右派的な言動の中に「ファシズム」の影を、「全体主義」の影を、あるいは「ポピュリズム」の影を見出しては恐怖を煽り「先の大戦の惨禍」が再び繰り返される可能性をあらゆる点に見出し、その芽を潰すことで「人類」に対して政治的に貢献できていると思いたいのであろう。

そのせいか、左派のポピュリズム批判は大戦後から現在に至るまで一向に変化していない。彼らはVichy政権や第三帝国権力層及びドイツ国民を批判したのと全く同じ言葉でトランプ氏やル・ペン一族に対し人身攻撃(ad hominem)を浴びせ続けているだけなのだ。欧州のリベラル左派が「ポピュリズム」を批判する時、その念頭にあるのは常に第二次世界大戦の記憶であり、ナチスであり、ヒトラーである。

左派イデオロギーに歪曲されていないポピュリズム理解とは

上述のように、左派のポピュリズム理解は前時代のヒトラー的な政治手法を基にしており、かつそこから何も進歩していない。重ねていうが、彼らの念頭にあるポピュリストというのはヒトラーであり、全ての政治家はヒトラーに類似しているように見えればその分だけ「ポピュリスト」であると強烈に批判されるというわけだ。

だが、こうした左派的理解は幾重もの恣意的誤解に基づいている。まず、ナチズムの反ユダヤ主義は「外国人差別」でも「排外主義」でもない。当時の「ユダヤ人」は法的にも文化的にも既にドイツに帰化していた「ドイツ人」であり、またナチスが迫害したのはユダヤ人のみではなく同性愛者や精神障害者、共産主義者やフリーメイソンなどナチス側が「劣等」あるいは「ドイツに害をもたらす者」と判断した「ドイツ在住者」である。

「アーリヤ人」というのもニーチェや当時の人種学者らが共同でつくりあげた一種の虚構であって、金髪碧眼でない以上ヒトラー自身がそもそも理想的アーリヤ人像に合致していない。カール・シュミットの言葉を借りれば、ナチスは「敵」と「友」を実に恣意的に分断したのであり、また外国人であるフランス人やスウェーデン人の中の「アーリヤ人」を歓迎し国内の「ユダヤ人」等を迫害したという点でも、単純に「国粋主義」だとか「排外主義」あるいは「外国人差別(xenophobia)」であるとは言い切れない。

実際、Vichy政権下のフランスやスウェーデンなどからはナチス側が驚くほどナチスに積極的に協力する者も出ていたのであり、その意味でナチズムは西欧において「国際的」性格を帯びていたのである。しかもドイツ以外の国家における「ナチズム受容」はドイツの軍事力による強制という側面も一応ある。

フランスのペタン元帥などは確かに形式的に民主的合意を集めた上で対独戦争を続けるよりもナチスに協力することを決めたのだが、フランス人がペタン元帥を選んだ時の状況はドイツ国民がヒトラーを選んだ時の状況とは似ても似つかない。後者はともかく、前者を単純に「ポピュリズム」だとするのはあまりに単純化し過ぎた理解である。

また、ヒトラーに関しても彼の人種理論は多数の矛盾を孕んでおり、しかも政治的都合で自ら理論を大きく歪めることさえ厭わなかった。例えば日独同盟を結ぶ際には大衆を納得させる為に「日本人もアーリヤ人である」という、当初の金髪碧眼主義を大きく裏切る学説を平然と発表している。その点を考えれば、ナチス側が人種理論にさほどの思い入れがあったわけではないということは一目瞭然だろう。

つまりヒトラーに必要だったのは大衆の熱狂であり、大衆が別の理由で熱狂してくれるなら人種理論そのものは必要ではなかったかもしれないし、またユダヤ人を抹殺しなくともよかったかもしれないのである。実際ヒトラーは大衆を喜ばせるために他にも実に様々な工夫をこらし、その手法は他でもない、ハリウッド映画やアメリカのコマーシャルの中に今日でも生きている。特に反共イデオロギーの刷り込みという点では第三帝国とアメリカのやっていることには技術力の違いという点以外に寸分の違いもない。

従って「ポピュリズム」は必ずしも「人種差別」や「排外主義」といった要素を含むわけではなく、単に娯楽至上主義という形をとる場合もあり得るのであり、鍵となるのはあくまで「大衆の熱狂」なのである。かつ、「大衆の熱狂」が政治的力を持つ為には、「デモクラシー」が無制限に肯定されなければならない。従って「ポピュリズム」とは、「大衆の熱狂」に基づく民主的合意の正統性を根拠に、「大衆の支持」以外の如何なる制限をも顧みず大衆迎合政策を次々と展開していく体制だと言える。要するに、民主主義への絶対忠誠こそが政治イデオロギーとしての「ポピュリズム」の正体なのである。

左派が「ポピュリズム」を歪めた理由

にも関わらずリベラル左派及び共産主義者が敢えて「ポピュリズム」を「無知な大衆の人種差別的・排外主義的感情の発露」へと矮小化したのは、民主主義崇拝そのものは彼らにとっても都合が良かったからだろう。

つまり、リベラル派・左派は政治手法としての「ポピュリズム」自体は取り入れつつも、ナチスと自分たちを区別する為にあたかもナチス的な「ポピュリズム」においては人種差別思想が不可欠の要素であったかのように語り、そうすることで自らの「ポピュリスト性」を隠蔽してきたのである。もっと簡単に言えば、左派は右派の「ポピュリズム」のみを「反知性」的だと糾弾し、自分たちこそが「知性」の権化であり「大衆の善導者」であると主張することが出来るように「ポピュリズム」を再定義したのである。

こうすることで、本来は「知的で教養ある貴族の良識ある保守主義」と「大衆の扇動によって体制変革を試みる革命主義」の二項対立であったはずの図式を見事に「人種差別的な大衆感情を利用する極右」と「異文化に理解のある良識あるリベラリスト」へとひっくり返したのである。こうなってしまった後であれば、左派は安心してクリントン氏の為に無数のハリウッドスターや有名歌手が応援演説を行ってもそれは「ポピュリズム」ではないが、トランプ氏が左派の耳に少しでも「人種差別的」に聞こえる発言を繰り返すことで人気を得るのは卑劣な「ポピュリズム」だ、などといった滑稽なことを平然と言えるのである。

既に字数が埋まってしまったので、この本来の「ポピュリズム」をどう評価するのか、また「ポピュリズム」と「保守主義」はどういう関係にあるのかについては次回論じることとする。

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