「民主的合意」という桎梏の超克こそが現代の課題だ

2017年01月07日 06:00

渡瀬氏の「保守主義の民衆化」論からは、渡瀬氏が現代アメリカの共和党側の政治思想を実に深く理解し内面化されているということが伝わってくる。私はアメリカのデモクラシーに対して批判的な立場なので渡瀬氏の意見には賛成しないが、氏の議論は批判する側から見てもよく整理された良質なものである。従って、渡瀬氏への応答はそのまま私の「民主主義」に対する見解を述べることになる。以下、これを試みることとしたい。

近代「民主主義」を支える理念

まず、「民主主義」というイデオロギーが前提としている諸理念を明らかにする。民主主義(democracy)の起源は無論古代アテネにあるのだが、近代民主主義の政治的「主義」としての特質は、まず何といっても「民(demos)」の間の政治的権利上の「平等」であり、その「平等」を前提とする「多数決制」の採用である。勉強のできるインテリの一票も、富豪や貴族の一票も、貧しい農夫の一票も、無学な元受刑者の一票も全て平等であるという個人の政治的権利上の「平等主義」こそが、「民主主義」の大前提である。

また、貴族やインテリ、あるいは富豪が集まって議論をする場としての「元老院(senatus)」はその名が示す通り古代ローマ時代から存在し、今日の英語で”senate”と呼ばれ日本語では「上院」と呼ばれるものも語源的には元老院に由来するのだが、そうした「senatus」の「決定」は民衆の代表者が集まる「下院」の「決定」によって覆すことができるという、日本の憲法学でいう所謂「(参議院に対する)衆議院の優越」こそは、その国家の政治体制が根本的に「民主主義」体制であることを最も明確に示す要素のひとつである。

尤も今日では上院(参議院)の議員をも民衆が選挙で選ぶ場合が多いので、この区別は今日ではさして意味がないが、大日本帝国憲法下の貴族院・衆議院の二院体制下ではこの区別は「民主主義(democracy)」と「貴族主義(aristocracy)」の境界線として機能した。

つまり、少なくとも日本や英国等の西欧先進諸国では、「民主主義」は必ずしもカリスマ的個人(僭主/tyrant)による独裁体制(tyranny)に対する抵抗として生まれたのではないのだ。無知な大衆の気まぐれな多数意見よりも貴族の熟慮を優先すべきだという「貴族制」に対して、全国民を平等に「一市民」とし、その市民からなる「民衆」の「民主的合意」の方が優先されるべきだという主張こそが「民主主義」の根本信条なのである。

渡瀬氏の議論と、それに対する「保守的立場」からの応答

偖、そこで渡瀬氏の議論を簡単に整理すると、(1)現代の先進諸国(とりあえずここではアメリカ及び日本のみを想定することにしよう)において何らかの形で貴族制(aristocracy)あるいは僭主制(tyranny)を復活させるというのはおよそ不可能である。(2)従って民主主義という枠組みは維持しつつ、「保守主義」を民衆の「多数意見」にしていき、議会をなるべく「保守主義者」(恐らく旧来の知的な貴族に匹敵する層)が占有することで事実上の「保守体制」、つまり貴族制的体制を敷くべきである。(3)また、民主主義体制下では行政府(日本で言えば官僚機構)の肥大化が民衆を政治から疎外し、これが官僚機構の中で影響を及ぼすことのできる「エリート」ないし「エスタブリッシュメント」階級に対する、そこから疎外された「民衆」の反発という形の「ポピュリズム」を生むので、官僚機構はなるべく小規模に止めるべきである、という三点に纏められる。以下、渡瀬氏の各論点に対する「応答」という形で私の見解を提示したい。

まず(1)に関して、一度民主主義が普及した後に貴族制あるいは僭主制が復活しないとは必ずしも言えない。そもそもフランス革命期にも王制や帝政は何度か復活しているし、大戦時のVichy政権も傀儡政権とはいえ極めて僭主的であった。ナチスも民主的プロセスで選ばれたとはいえ、選ばれた後には同じく民主的プロセスによってナチス政権を退場させる道を全て断つことで権力を絶対化した。

エジプトやイランなどの回教圏でも、「民主化」プロジェクトは悉く失敗している(詳しくは以下の池内氏の解説を参照いただきたい)が、その失敗の仕方というのは、これらの回教地域に「民主主義」を導入すると「民衆」が自ら専制体制を民主的に選んでしまうことによって、「民主主義体制」が「民主的」に拒絶されるという形をとるのである。中東や危機的状況のドイツやフランスで生じた現象が、日本やアメリカでは決して起こらないとは言い切れない。民主主義は常に自壊する可能性を自らの内に胚胎しているのであり、民主主義を自壊させない為には民衆に対して何らかの「外圧」を加えつづける必要があるのである。

西欧では「政治的正しさ」等に見られる「戦後リベラルイデオロギー」がこの「外圧」であり、非西欧圏では「西欧」という存在それ自体が「外圧」として機能している。この「外圧」に対する反発は西欧でも中東でも日々強まっているが、しかし戦後リベラルイデオロギーに反発する西欧人は「トランプ現象」程度で喜んではいない。むしろ多くは最初から冷ややかな眼を向けており、中にはトランプ氏が大統領指名を得ることに成功したことをもって愈々「トランプもそっち側か」と突き放す者さえいるのが現実だ。

渡瀬氏自身が指摘したように、トランプ氏の勝利はトランプ氏が共和党票を増やすことに成功したからではなく、ヒラリー側が民主党票を減らしたという民主党側の自滅のおかげなのであり、「アンチ・トランプ」で異常に盛り上がっている一部のリベラル派以外は誰もトランプ氏に熱狂などしていない。その意味では、「トランプ現象」は「ポピュリズム」の台頭ですらなく、むしろリベラルイデオロギーの失敗を記録するに過ぎない。そうだとすれば、アメリカにおいて何らかの形で「民主主義」が「自滅」する可能性もゼロではないだろう。

(2)に関して、そもそも「民主的合意」の正統性が他のいかなる正統性根拠に対して「優越」することを理念的に認めている時点で「政治的正統性の根拠を伝統的権威に求める派」という意味での「保守主義者」ではないのは明らかなので、渡瀬氏が「保守主義」という言葉で意味していることは私の「保守主義」の定義とはずれている。政治的決定の正統性を民主的合意に求める考えそのものを否定し、正統性の根拠はあくまで歴史的に相続された貴族的特権に由来するという考えが英国的保守主義の核心なのだとすれば、イデオロギーとしての「民主主義」と保守主義は両立し得ない。

蛇足だが、共産主義、社会主義、あるいは進歩主義に反対する立場を「保守主義」であるとするのは、「左派」が対立者を侮蔑する際のレトリックである。つまり意図的な言葉の誤用であって、反進歩主義的な民主制擁護派を「保守派」と呼ぶのは誤謬である。

(3)に関して、民主的合意に基礎を持つに過ぎない「エスタブリッシュメント(特権層)」に対し、そのことを逆手にとった民衆が彼らの「合意の不在」を顕在化させることで、特権層による「民衆の支配」を通して「民衆の支持」を人口的に作り出すことによる「権力の再生産」を阻害しようという動きとしての「ポピュリズム」と、所謂行政府の肥大化が副次的に生む「テクノクラート至上主義」の問題が同時に語られているが、テクノクラートの問題は必ずしも「民主主義」体制のみが抱える問題ではないのでここでは触れない。

また特権層の権力再生産が民主制下でも事実上生じており、これは解消されるべきだというのはむしろ「左派」の議論である。「民衆的合意」を正統性の根拠とするが故に、「ポピュリズム」という手段によって権力の簒奪が簡単に行えてしまうというのは「保守派」にとって全然喜ぶべきことではない。むしろ、これは民主制の陥穽のひとつに数えられるべき事象である。

民主主義の時代は終わりを迎えつつある

まだ十分に説明していないことも多いが、既に制限文字数を大幅に超過しているのでここで一度区切らせていただくことにする。ここまでの議論で私が主張しようとしていたのは、「民主的合意」のみを政治的正統性(legitimacy)の根拠とする体制は極めて脆弱だということだ。

M. Houellebecqの「服従/la soumission」は、民主的合意のみを政治的正統性の根拠とする体制が現実にどういう結果を生むのかということを改めて考えさせる挑戦的な小説であるが、これは決して回教に対する差別意識の現れ云々で片付けられるべきものではなく、むしろ「民主主義」という制度の脆弱性に対する反省を促すものと読まれるべきだと私は考えている。

現実にDeash(イスラム国)のような体制が生まれるという事態が生じている以上、この問題はそれほど軽視されるべきものではないだろう。西欧社会がこのまま「戦後リベラリズム」を墨守し何もしなければ、別にナチスのような「極右」政権が誕生しなくとも西側の「民主主義」は「回教化」という形でその終わりを迎えてしまうのである。このような視点に立つ時、これまでその「非民主性」を理由に否定されてきた、政治的正統性を「伝統的権威」に求める過去の日本の政治体制を全く別の視点で再評価するという作業の、真に価値ある「現代的意義」が見えてくるのではないだろうか。

(P.S. 渡瀬さん、記事中で拙稿に言及していただきましたこと、大変感謝致しております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。)

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