センター試験での不正が示す日本の教育の後進性

2017年01月16日 06:00

産経新聞が本年度のセンター試験における「不正」の件数が全国で12件と過去10年で最多を記録した、と報じている。報道によれば、その内の半数を占めるのは「電卓の使用」であるそうだ。これにある意味とても興味深いので、私の個人的経験を交えて一言述べさせていただこうと思う。

英国系インターナショナルスクールでは電卓は使用可

私の友人には所謂「インターナショナルスクール」出身者が多く、彼らの多くは「センター試験」の代わりに国際バカロレア(IB)という試験を受けるのだが、IBはその難易度が非常に高くかつ学術性が高いことで知られている。実際、IB経験者の大学入学後の成績は、それぞれ各国政府が提供する公教育を受けてきた者と比べれば圧倒的に良い場合が多い。英国の大学であるにも関わらず、英国人よりもIB経験者の外国人の方が成績が良いのである。

ところが、そのIBの数学及び物理等の試験においては、電卓の使用は最初から許可されている。私の友人で数学と物理が非常に得意なギリシャ人の英国系インター出身者がいるのだが、彼はIBにおける数学の成績は最優であったにも関わらず、日本人の受験生ならほぼ全員が出来るような、「割り算」を電卓なしで行う方法を忘れてしまって出来なかった。私が「日本人」らしくそのやり方を示すと、「ああそんなだったかもね、ちょっと思い出したよ」とあっけらかんとしていたが、私はIBにおける教育と日本の教育にこれほど差があったのかと実に大きな衝撃を受けたものだ。

彼と同じ学校出身者の中にはケンブリッジ大や米国の名門大などへ進んでいる者も多いが、このエリート達にとって電卓を使って計算するのは当たり前のことであり、私が一応「日本では計算能力も知性の重要な部分だと思われてるんだけどね」と指摘すると、むしろ電卓という道具が存在しているのにこれを使わないことの「非合理性」を力説されてしまった。

彼によれば、「数学の本質は細かな計算などではなくて、概念を理解することだ。概念さえ理解できていれば、細かい計算は電卓にさせれば良いし、現実の生活においてわざわざ電卓を使わずに紙と鉛筆で計算する奴などいないのだから、それに合わせて教育も合理化されるのが当然だろう」とのことである。

日々改善されていくIBと各国の守旧的教育制度の差

尤も、彼の母国であるギリシャの公教育は日本と同程度に「遅れ」ており、非効率な教育が行われている。ギリシャに限らずイタリアやスペイン、フランスに至るまで、一般にヨーロッパ大陸の公教育はそこまで進んでいるわけではなく、むしろ日本型に近い制度のままの場合が多い。(戦前日本の教育制度は当時のフランス及びドイツのそれを参考につくられ、戦後の教育制度はそれを少しだけアメリカ風に変えたものである。)

従って「西欧」全体が進んでいて「日本」だけが遅れているなどという主張は単純に誤謬であるのだが、インターナショナルスクールと通常の公教育の格差は斯様にしてどんどん拡大しており、今の時点で既にほとんど「IB出身」と「教育後進国の通常教育修了者」の間には日本と西欧の間の文化的相異以上の差が生じてしまっている。

IBと通常教育の違いは、何も電卓の使用が許可されているか否かという些細な点だけではない。むしろそれは両者の間の教育思想の違いを示す象徴的な例のひとつに過ぎない。例えばIBでは電卓が使用できる上に計算ミスはほとんど減点対象にならない。考え方が正解なのであればそれで良いとされるのだ。

日本の受験生は一点でも多くとらねばならないので、計算ミスは命取りであり、日頃からミスのないように訓練している人が多いと思うが、そんな苦労をIB出身者は一切することなく、どんどん概念的に高度な内容を学んでって最終的には大学レベルのことをある程度先取りしてしまうのである。結果大学入学後の成績は平均以上なのであれば、IBは学生の立場からすれば実に優れた教育なのではないだろうか。

日本の教育を支える教育思想は論理的批判に耐えうるか

だが、何より重要なのはそもそもIBを支える教育思想に比べて、日本の教育を支える教育思想が理論立てて正当化できるほど論理的に支持できるようなものでは全く無いということだ。日本の教育思想が時代遅れの根性論や精神論と、それを支持する非合理な大衆の賛意によって支えられているだけなのであれば、これは衆愚的決定に基づく愚劣な制度であると言わざるを得ない。

ある一定の明確な教育目標を達成する為に、それを達成する為の現実的手段として正当なものと経験的に認められる手段によって教育を行い、その結果を分析して制度の不備を補い長所を拡大するという絶え間ないプロセスの中で設計されているのであれば良い。

だが、例えば「グローバル人材の育成」という不明確な目標を文科省は相も変わらず掲げているが、しかしその達成の為には不可欠と思われる外国語教育の強化のために何が計画されているかと言えば、

高等学校段階の生徒の特性・進路等に応じた英語力、例えば、高等学校卒業段階で、英検2~準1級、TOEFL iBT60点前後以上等を設定し、生徒の英語力の把握・分析・改善を行うこと

など、全く「グローバル」水準にあるとはいえないレベルの到達目標を掲げている。これでは「帰国子女の方は日本で英語を学ぶ必要はありません」と言っているようなものだ。「アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべき」と言っておきながらこんな低い目標を立てていることは、文科省はよほど「アジア」を舐めているとみえる。以前も論じたが、日本の英語レベルは国際的に見れば「アジアの中」でも最低クラスであり、日本よりも「西洋化」という次元で一歩遅れていると見られがちな隣の中国や韓国を下回っている。特に韓国に英語力で劣るということは外交上の実害を伴いかねないことは数日前に論じた通りなので、このことにはもっと危機感を持つべきだろう。また、シンガポールや香港、インドなど国民の平均的英語力が既に準母語話者レベルに達している国家も複数ある中で、「アジアの中でトップクラス」を目指すのであれば高校卒業段階で最低でもTOEFL iBT80点以上には到達すべきだろう。

教育プログラムの改革案自体に特に異論は無いが、この到達目標の驚くべき低さ自体がこの「新教育プログラム」が教育現場で実際にどのようなものとして現れるのかを予言している。

つまり、建前だけ立派でも、現状(の英語教師のレベル等を考慮せざるを得ない状況)では戦前以来の「ガラパゴス」化したアジア式英語教育の枠組みから脱することなど出来ず、従ってその教育成果も著しく不十分なものとならざるを得ないのである。

「平等」を重んずる公立高校や世論等からの反対があまりに強く、改革しようとしても途中で頓挫してしまうという事情もあるようなので文科省だけを責めるつもりはないが、このようにあくまでも「平等」を是とし、また「現場」との折り合いをつけていく中で場当たり的に成立していく日本の教育制度が、論理的批判に耐えうる思想を背景にしているとはとても思えない。

「電卓を使用」することが「不正」として厳しく罰せられ、細かな知識を無理矢理にでも暗記させることを強いる教育風土の中から、さらなる効率的ビジネスモデルを冷徹に探求できる柔軟な頭脳が育ってくる期待するのは、棚からぼた餅が落ちてくるのを待ちぼうけているとの何ら異ならない。

重ねて言うが、「西欧」の全てが「進んでいる」わけではない。だが、西欧の一部地域で既に実施されている「先進的」な事例を、他の国が導入していないからというだけで日本も導入しなくて良いということにはならないはずだ。むしろヨーロッパに先んじて公教育をIBレベルの効率的なものに劇的に変化させることができれば、少子化にも関わらず日本の未来は急激に明るくなってくるだろう。

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