テクストのデモクラシー(&拙稿読者様への謝辞)

2017年01月28日 06:00

岩波「思想」を今日読む意義

「岩波(書店)の没落」あるいは「岩波知識人」の衰退が指摘されて久しいが、私は実は高校を卒業した頃(2011年)から渡英するまではずっと岩波の「思想」を購読していた。私が「アゴラ」に寄稿している記事を読んで下さっている方は、恐らく私が「保守的」で所謂「リベラル」に対して批判的な傾向を隠していないことを察知しておられる方が多いであろうから、これまでずっと岩波の「思想」を読んでいたなどと言えばあるいは驚かれるかもしれない。

確かに岩波の「思想」で扱われるテーマは圧倒的に大陸哲学に偏っており、特にフランスのポストモダン哲学の影響が非常に強く、一見すると不用意に晦渋な文章が並んでいるようにしか見えないかもしれない。また、「思想」の思想的傾向はどう見ても「保守的」ではなく、「権力からの解放」をテーマにした「自由への戦い」という一種の批判的伝統に連なる系譜の中にあるのも確かだろう。

だが、そうは言っても岩波の「思想」の記事を書いておられるのは長年学問を積まれてきた名門大学所属の碩学者ばかりである。思想的傾向性が性に合わないとしても、否、岩波知識人の思想的傾向に反感を持つ人であればこそ、敵を知ることは重要であると私は思うし、その意味を含めて大抵の記事は一読の価値のあるものだ 。

藤本一勇氏の「テクストのデモクラシー」

そんな中でも私が読んだ記事の中で私にとって最も輝いて見えたのは、「テクノロジーと来るべきテクスト」という藤本一勇氏の記事である。私がノートに書き留めておいた一節を引用しよう。

『…人文学者と文学者はみずからがもつテクストテクノロジーをあらゆる人々に広め、万人•万物のテクスト性へ開かれたテクストのデモクラシー、テクストのコミュニズム。(本文では下線ではなく傍点)それはリスクをも含めたあらゆる可能性(不可能性の可能性まで)を直視し、それへと開かれた来るべきデモクラシーであり、来るべきコミュニズムである。われわれがテクノロジーを含めたすべての現象=テクストに対して限界づけられているというこの「凡庸」な事実、われわれの「凡庸さ」、これを出発点として専門家や一般市民、科学者や文学者、資本家や労働者といった分断を超えた「凡庸者」たちの連帯、デモクラシーを構築すべきである。

そのためには技術権力を握る者たちに正当化要求を突き付けていく必要がある。専門家や権限者に対して、彼らが設定するフレームの問題点を指摘し、フレーム外からの他者の声に真摯に応答するように要求し、そうした指摘や要求が可能な環境を、包囲網を築き上げなくてはならない。この正当化、応答責任を権限者が顧みないような環境では、どんな言論も、呼びかけも無力だからだ。開き直りや居直りが許されない状況を生み出さなければならない。』(p.274、太字強調は私の編集による)

途中の「コミュニズム」という表現が若干誤解を招くおそれがあるという瑕疵を除けば、この一節の持つ意義は「トランプ大統領」の誕生した今改めて省みると実に大きい。英語圏でalt-rightと呼ばれる新興メディアやYouTubeに日々投稿される動画がまさに「テクストのデモクラシー」への試みの一つであると位置付けられるとすれば、「技術権力(≒学歴/職歴等)」を握る「エリート」に対し「凡庸者」が連帯することで成立した英国のEU離脱やトランプ大統領の誕生といった事態は、まさに「エリート」側が「テクストの民主化」というプロジェクトの推進を怠り、むしろこれに対して「政治的正しさ(political correctness)」という形で反動的姿勢を取り続けてきたことに対する「テクストのデモクラシー」そのものによる叛逆であるという、単なる「ポピュリズム台頭論」とは異なる見方もできるだろう。その意味で、藤本氏の記事が指摘している規範的提言(normative claim)の重要性はいくら指摘してもし過ぎることはない。

政治的正しさ、学問的正しさ、そしてテクスト次元でのデモクラシー

尤も、この藤本氏の一節を「政治的に(あるいは学問的に[1])正しく」解釈すれば、この「テクストのデモクラシー」の論理というのは「トランプ現象」を正当化するものでは決してなく、むしろトランプ氏によるCNNに対する痛罵や「政治や(右寄り)世論のメディアに対する圧力」に対して(実際には「凡庸」とは程遠い「技術権力」を有しているにも関わらず単に現実政治に直接参加していないというだけの理由で政治権力を欠いた「凡庸者」側に立つとされる)「理性的知識人」が立ち向かう基盤を構築すべき、すなわち直截的に言うならば「リベラルメディア」を民衆が支えるべきという実に「凡庸」な結論を導くのが正解なのだろう。そのくらいのことは、別に行儀の良い立派な先生にご高説頂かなくてもアゴラ読者の方々にも既に十分に明らかだろうと思う。[2]

だが、私は敢えてこのテクストを「誤読」したい。つまり、公的な発言の場として「権威」を認められている新聞、書籍、テレビや信頼性を認められているオンラインメディアに到るまでの「既存メディア」、あるいは専門家集団間の公的空間である学会や専門誌などの一切の「公共の場」から疎外され「匿名性」の中に埋もれている、決して知的であるとも「進歩的価値」があるとも限らない「民衆の声」に「他人に耳を傾けてもらう権利」を与えてこそ、真に「リスクをも含めてあらゆる可能性」に開かれた「テクストのデモクラシー」を実現する一歩となる、という解釈を敢えて提示したい。

尤も、この「テクストのデモクラシー」という概念の中で最も重要な鍵となるのは、万人が「テクスト」を提供する権利を持つようになることではない。万人が自分の「テクスト」を他人に「実際に読んでもらう」ところまで実現してこそ、「テクストのデモクラシー」はその真価を発揮する。どんなに良質で有意義な「テクスト」でも、読まれなければ存在しないに等しいのだ。すなわち、「テクストのデモクラシー」は万人の「書く権利」の保障を要求するとともに、万人に対して他者のテクストを「読む義務」をも課している。

といっても、実際に全てのテクストを読むことなど物理的に不可能だ。従って読み手はどのテクストを読むかを選択せねばならず、かつその選択は「自由」に行われなければならない。このジレンマを乗り超えるには、一人一人が書き手としても読み手としても一定の作法を身につける必要があるのは言うまでも無い。となると、結局この作法を身につけた人とそうでない人の間に格差が生じてしまうのだが、この格差を少しでも縮小する為に我々に今できることは無数にある。

まずは、とにかく「テクスト」を生産しつづけ、その質を書き手が自ら高めていくこと。そして他人の「テクスト」を読むことで、他者の「読まれる権利」の行使に貢献するとともにそこから自らのテクストの改善へのヒントを探り続けること。この「テクスト」をめぐる営みは、現代では決して「専門家」や「知識人」のみに課せられたものではない。Twitterや2chで匿名投稿者の立場で情報発信をするだけの名も無き者にさえ、「テクストのデモクラシー」は一定の義務を暗黙のうちに課しているのだ。

アゴラ読者の皆様への感謝と「テクスト生産」の勧め

このことは私自身にも当然当てはまる。つまり、私もこの「アゴラ」を通して「書き手」としてテクストを生産させていただいているが、私の営みに意義を与えているのは最終的に「読み手」の方々である。私のテクストを読んでもらえるということはそれ自体が大いに感謝すべきことであり、またそれは同時に私に他の方々のテクストを読む義務を課してもいる。従って「テクスト」の建設的再生産が行われる領域の拡大に、 微力ながら少しでも貢献できればという思いで本稿を執筆させていただいた次第である。

*今月は拙稿が月間アクセスランキングの一位二位及び十位(1月28日現在)にランクインしたこともあり、改めてアゴラ読者の皆様に感謝の辞を述べたいという意図もあり、また最近は「言論の自由」が様々な形で改めて議論の対象になっているという文脈を踏まえて本稿を執筆しました。「テクスト」の持つ意義が逆説的に急上昇している現代において私のテクストを読んでくださっている方々には、改めて心より感謝及びお礼申し上げます。その御恩はなるべく多くのテクストを私も読むことで返したいと思っておりますので、この記事を読まれた方には是非テクストのさらなる生産を続けていただければ幸甚です。僭越ながら、今後もさらに多くの良いテクストに出会えることを楽しみにしております。

参考文献:

藤本一勇「テクノロジーと来るべきテクスト」、 岩波書店「思想」No.1088、p.262-278

[1]日本では「ポリコレ」という言葉は浸透してきているものの、英語圏ではacademic correctnessという「学問的正しさ」の問題点もpolitical correctnessと同じ文脈で指摘されている

[2] 無論、所謂「ヘイト・スピーチ」と呼ばれる単なる誹謗中傷までをも容認するべきではない。脅迫罪に該当するような表現や名誉毀損行為はそもそも犯罪である。だが、「中傷」と「批判」の境界は時に曖昧になることもあり得る点には注意が必要だ。何をもって「ヘイト・スピーチ」とするのかは慎重に議論されるべき問題である。

アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!

関連記事

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑