中国で男性が虎にかみ殺された事件で感じた人情

2017年02月02日 15:50

中国の春節期間、最も注目を集めたニュースは、浙江省寧波(ニンポー)の動物園で男性が虎にかみ殺された事件である。中国では昨年7月にも北京のサファリパークで、車外に出た女性が虎に襲われ、救おうとした母親がかみ殺される事件が起きたばかりだ。いずれも安全意識、順法精神の欠如が指摘できるが、今回は、男性が入場料を払わずに3層の壁を乗り越えて動物園に侵入し、隔離された虎飼育エリアに入ってしまった。日本ではまずあり得ない事件ではあっても、社会の反応には考えさせられる点がある。

寧波動物園の事件が起きたのは春節二日目の1月29日午後2時ごろ。ネットでは発生直後から、男性が虎にかまれ、顔面が血で染まった動画や画像まで流れた。男性は死亡し、花火や放水の威嚇で虎6頭は檻に戻ったが、現場から動かなかった一頭が射殺された。虎飼育エリアは、一般の来場者とは深い堀で隔てられているので、どうして男性が虎エリアに入ったのか、様々な憶測が流れた。公式発表は同日深夜までずれ込んだ。情報操作が行われている可能性もあるので慎重に事実関係を精査する必要があるが、メディアの報道によると概要は以下の通りである。

死亡者は河北省恩施出身の男性、張さん(36)で、今年ちょうど年男を迎えた酉年だ。2000年ごろ寧波に出稼ぎに来た工場労働者て、この日は妻と12歳、5歳の男児2人、そして友人の夫妻と一緒に動物園に来た。妻子3人と友人の妻は1人130元(子ども半額)の入場券を買って入場したが、張さんと友人の男性は入場料を節約するため、壁をよじ登って入ろうとした。虎飼育エリアまでは高さ3メートルの外壁と鉄条網、さらに高さ3メートルの内壁があり、それぞれに乗り越えを禁ずる警告の掲示がある。友人は途中で断念したが、張さんは最後まで行ってしまった。

月給数千元の出稼ぎ労働者にとって、130元(約2000円)の入場料は大きな負担だ。春節は通常、家族親類と過ごすため帰省するのが一般的だが、家族4人が帰省する往復の交通費も一か月の給料に相当する。都市での生活が長くなれば、事実上、都市住民と化し、実家とは疎遠になりがちだ。都市で生まれ育った子どものため、春節は人並みに動物園を見せてあげたいと思う親心は十分に理解できる。

動物園は貴重な虎を一頭失い、事件後、臨時休園を強いられ、張さん家族からは管理責任を問われ、マイナスイメージばかりが拡散し、踏んだり蹴ったりの被害をこうむった。ネットの意見も、「自業自得だ(活該)」と張さんの違法行為を責める声、虎こそ犠牲者だとする声、さらには遺族が動物園の責任を問うのは恥知らずだとする声が目立った。「もし家に空き巣が入って、飼い犬が盗人をかみ殺したら、犬は殺されて当然なのか?」と、冷や水を浴びせる問いかけもあった。

虎を追悼する画像まで多数転載された。

確かに、人間が勝手に虎を自然から連れ出して檻に入れ、金もうけのため見世物にし、防衛本能に従っただけで射殺する行為は、動物園というあり方そのものに根源的な問いかけをしている。射殺という結末は突出して見えるが、完全に動物の自由と本能を奪い、生死もコントロール下に置く行為とどれだけ落差があるのかと問われれば、簡単に答えは出てこない。

だが、ネットユーザ-の反応で気を引いたのは、死亡した張さん、そして残された家族を同情する声が少なくなかったことだ。

「自分の入場料は払わず、妻子に入場券を買ってあげたのは、家族への愛情があるからだ」

「残された妻や子どもたちは、これからどうやって都市で生活していけばよいのか」

「入場料130元は工場労働者には高すぎる。けちる気持ちはよくわかる」

「順法精神の欠如というけれど、われわれみんなは日ごろ、交通法規や公衆道徳のルールをちゃんと守っているのだろうか」

同情論に通底しているのは、人の命が失われたのだから、せめて悲しみ、惜しむ気持ちを持とうではないかとの感情だ。中国人の伝統的な発想は「物事には理と情がある」と考える。「合情合理」のバランスが最も重んじられる価値基準である。ルールと理屈で固められた社会は人情に欠け、窮屈だとみなされる。

「日本ではあり得ない」と言い張る人も多いだろう。だが、もし同じことが日本で起きたと想像することは無駄でない。「自業自得」の大合唱が起き、メディアは動物園側が弁護士を通じて発表する「法的責任はない」とのコメントを流し続ける。そして家族は「社会を騒がせ、ご迷惑をおかけ申し訳ございません」と謝罪を強いられるに違いない。少なくともそういう空気の中で暮らさざるを得ないだろう。無情なルールに寄りすがることが、政治的な正しさや道徳の安全地帯への逃げ道を用意することになる。

私はこんなことも連想する。

政府が渡航自粛を呼びかける戦場へフリーランスの日本人ジャーナリストが取材に出かけ、人質にされ、時には銃撃戦の犠牲者になる。日本のメディア環境は、少数の主流メディアが言論を寡占し、とかくフリーランスには冷淡だ。戦場での人質事件では、犠牲者に安易な「自己責任論」をおいかぶせ、人命か国益かという難題、大局的な問題意識から目をそらせることがお決まりのパターンになっている。これは以前の授業でも話した。遺族が謝罪までしなければならない日本の過剰な自己責任論は、世界からは奇異に映る。

人間は時に非情だ。機械的なルールを絶対視し、生命に対する冷淡、無関心からをも目をそらそうとする行為は、わずかなルールの違反者のささいな失策をつかんで離さず、完膚なきまでたたかなければすまない熱狂的な非情とコインの表裏をなす。難題には見て見ぬふりをしてやり過ごし、だれにでもわかる容易な問題には我先にとこぞって口を挟むのだ。

チケットを払わず、壁まで乗り越えていく行為は決して許されない。浅はかな行いが自らの命ばかりでなく、動物の生命までをも奪ってしまった。順法教育の反面教材であることは間違いない。「ダメなオヤジ」「ろくでなし」と言ってしまえばそれまでだ。

だが彼が刹那に感じたであろう後悔、無念、反省、そして苦痛にも思いを寄せるべきではないのか。家族や友人の前では「いいやつ」だったかも知れない。結果的に虎の命も失われたが、彼は故意にだれかを傷つけようとしたわけではない。加害者、被害者と二分して落とし前をつけるほど、われわれは偉くも賢くもないはずだ。

大学の冬休みはまだ続くが、今日で春節の休暇が終わる。今年の春節はずっとこの事件のことを考えていた。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年2月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

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加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

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