「金正男氏の遺体」論争と偽名の生涯

長谷川 良

マレーシア警察は22日、金正男氏暗殺事件後、北朝鮮に帰国した4人のほか、3人の北関係者を追ってきたが、そのうち2人の身元が判明したと発表した。1人は駐マレーシアの北朝鮮大使館所属のヒョン・クァンソン2等書記官(44)、もう一人は高麗航空のキム・ウクイル職員(37)だ。「正男氏暗殺事件」に北関係者が関与していたことが判明したことで、事件は北の仕業であることが確認された。

それにしても、暗殺工作で犯行現場の駐在外交官を動員したやり方は、事件が判明すれば駐在国との関係が険悪化する危険性を無視した最悪の選択だ。北はそれを知りながら現地駐在外交官を正男氏暗殺に駆り出したことになる。これは暗殺計画が短期間に実行に移されたことを強く示唆している。

ところで、「正男氏暗殺事件」で理解に苦しむ点は少なくないが、その一つは駐マレーシアの康哲(カン・チョル)北朝鮮大使が「キム・チョル」の遺体を焦るように返還要求してきたことだ。今回は“正男氏の遺体”争いに絞って書いていく。

北側の立場は、殺害された人物が所持していた「キム・チョル」という旅券名から「彼は北の国民であり、メディアが報じる金正男氏ではない」として、遺体を早急に北側に戻せ、というものだ。

一方、マレーシア捜査当局は「遺体の身元確認が取れていない段階で北側には渡せない。身元が確認され次第、その遺族関係者に遺体を引き渡す」と基本的な立場を説明した。同国の保健当局は21日、記者会見で「遺体の身元を確認中」と発表し、確認が取れていないことを明らかにしたばかりだ。

マレーシア当局が遺体を速やかに北側に渡さないことから、康哲大使は20日、激怒し、「マレーシア警察の捜査結果は信用できない。外国勢力と連携を取って北側を貶めようとしている」とメディア関係者の前でマレーシア政府を批判。それに対し、マレーシア側も「わが国を侮辱することは許さない」と反論する一方、駐北朝鮮のマレーシア大使を召還したばかりだ。マレーシアは本来、北朝鮮とは友好的な数少ない国だが、正男氏暗殺事件を契機に両国関係は急速に険悪化してきている。

金正男氏は生前、身辺の安全から「キム・チョル」という偽名の旅券を利用していたが、遺体となった今日、その偽名が皮肉にも身元確認の障害となっている面もある。21日現在、マレーシア警察によると、「遺体の引き渡しを要求してきた遺族はいない」という。

遺体に関する紛争は珍しいことではない。歴史的人物の中には遺体の場所すら分からない人物がいる。例えば、イスラエル人60万人をエジプトから率いて福地カナンへ向かったユダヤ人指導者モーセの墓は不明だ。そしてユダヤ人に十字架にかけられ処刑されたイエス・キリストの墓も同様だ。最近では、アドルフ・ヒトラーの墓も埋葬場所を誰も知らない、といった具合だ。こうした歴史上の人物にも“遺体争い”があったのかもしれない。その意味から“正男氏の遺体争い”は珍しいことではない。

話を正男氏の遺体問題に戻す。北側が遺体をキム・チョルとして遺体返還を要求する背景には、早急に「正男氏暗殺事件」の幕を引きたいという強い意向があるからだろう。正男氏暗殺が「北側の仕業」と国際社会が騒ぎ出す前に事態の鎮静化を図りたかったはずだ。だから、康哲大使が何度も病院や遺体保管所に足を運び、遺体の引き取りをマレーシア側に要求してきた。

もちろん、それだけではないだろう。正男氏の所持品、例えば、クレジットカードなどを手に入れたいだろうし、スマートフォンを入手したいはずだ。正男氏が接触していた北側人物の電話番号が入手できれば、大きな収穫となる。ひょっとしたら、銀行口座番号を得て、正男氏の個人資産の行方に関する情報が入手できるかもしれない。そのためにも、正男氏の遺体を早く引き取りたいのだ。

北側の狙いを阻止し、正男氏の身元を確認できるのは息子のキム・ハンソル君ら家族関係者しかいない。ハンソル君は危険だろうが、マレーシア入りして父親の遺体と対面し、確認する必要がある。

正男氏は2001年5月、ドミニカ共和国の偽造旅券で日本を訪問し、ディズニーランドを訪問しようとしたことがあった。スイスのインターナショナルスクール留学時代やマカオの生活も偽名で生きてきた。常に身元を隠す生涯だった。そして暗殺された後、今度は遺体の身元争いが生じている。正男氏は本名で堂々と生きることができずに終わった。45年間の同氏の短い生涯は憐れみを誘う。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年2月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。