尊皇思想は幕末に生まれたわけでない(池田信夫氏への反論)

2017年03月02日 15:00

※編集部より:本稿は、アゴラ研究所のフェローに就任した八幡和郎さんのオリジナル寄稿です。先日の池田信夫・アゴラ研究所所長の提起した歴史問題に関し、八幡さんから異論です。2人の論客の論戦ぜひご覧ください。

天皇と幕府という名を消せという池田氏の主張

「聖徳太子がダメなら太平洋戦争も大東亜戦争と呼べ」という投稿をアゴラにしたら「『幕府』も『天皇』もやめよう(八幡さんへのコメント)」という池田信夫さんからの投稿をいただいた。

ここでは、太平洋戦争については、結論としては、「私は大東亜戦争でもいいと思う。今どき、それを真に受けて軍国主義に走る人はいないからだ」とされている。

しかし、池田氏の論議の中心は、

「こういう非歴史的な名称をやめる方針を徹底すれば、『幕府』は明らかにやめるべきだ。徳川家が幕府という言葉を使った事実はないからだ。それは後期水戸学の使い始めた皇国史観によるもので、『皇室の地位を簒奪した成り上がり者』という価値観を含んでいる」

「江戸時代以前に『天皇』を使うのはおかしい。少なくとも順徳天皇(~1221)から光格天皇(~1817)まで、天皇という語は正式に使われなかったからだ。在位中は「禁裏」とか「天子」と呼ばれ、没後は「**院」と呼ばれた。すべての「院」に遡及して「天皇」という謚がつけられたのは1925年である」

とおっしゃっている。

そこで、歴史的に当時は使われなかった呼び名を教科書などでどう扱うかということについてまず論じたい。

ただし、この問題は時間軸だけでなく、空間軸でも同じなのである。つまり、外国の人名、地名、称号などを現地とは違う呼び方をすることは珍しくないからだ。

とくに、私はこの問題については、「世界の国名地名うんちく大全」「世界の王室うんちく大全」(いずれも平凡社新書)という本を書いて、その問題を論じているから、一家言ある。

私もやはりできるだけ当時において、あるいは、現地において使われた言葉を使うべきだと思う。ただ、当時はとくに名称がなかったという場合もあるし、別の名前が歴史的に長く使われてきたとか、世界や日本で広く使われてきたこともある。

そういう場合には、慣用的な呼び方を使うにしても、それがオリジナルのものでないことを明記すべきだ。たとえば、幕府という名称はほかに呼び方がないのだから、「幕府(朝廷に対する将軍の政務機関を指す言葉として幕末以降使われるようになった)」と最初に定義するべきだろう。

また、「藩」については、「大名領国を指す言葉として、一部の儒学者のあいだで中国の僻地の統治を軍司令官などにまかす場合に使われた言葉を借りて使うことがあるだけだったのが、幕末に広まり明治二年の版籍奉還時に正式名称となった」したうえで使うなら問題なかろう。

デタラメな外国の国名などの標記はやめて欲しい

外国の地名については、できるだけ、現地のものに移行すべきだ。また、外務省と文部省で呼び名が違っているというのはまことにおかしいが、基本的には外務省の判断に従うべきだ。

スペインはエスパーニャ、ドイツはドイチュランド、イギリスは連合王国というべきだろう。また、国名のうち漢字部分は、合衆国といった明らかな誤訳は改めるべきだ。

同様の問題は君主の称号でもあり、キングと称してない国については、君主とでもして原語のルビでも振っておけば良い。大公でもアミールでもスルタンでも国王というのはおかしい。

時間軸で呼び方が変わっているものもある。たとえば、スペイン王国とか大ブリテン及び北アイルランド連合王国という名が出来たのは18世紀のことで、それまでは、カステリアとアラゴン、イングランドとスコットランドの同君連合に過ぎなかった。神聖ローマ帝国などという名も随分あとになって成立しているが、このあたりも、ひとこと註釈は欲しい。

東洋史では、近代になるまで使われていなかった西欧由来の概念を、西欧語を日本語の外来語として翻訳してつかっていたら中国もそれにのったというものが多い。帝国とか王国という言葉もそうで、大清帝国は大日本帝国を真似て成立したものだ。

天皇と書いてスメラギと古代の人は読んでいた

天皇という称号については、池田氏の議論にはほかの多くの論者と共通の誤解があると思う。
日本語の語源を議論するときにややこしいのは、もともと、ヤマト言葉があって、それに漢字をあてはめていったことが多いことだ。

たとえば、倭国などという国があったのではない。日本人は自国をヤマトと呼んでいたらしい。そして、中国に手紙など出すときは倭と書いたかもしれないが、国内的には読みはワコクではなくヤマトだった。

だから、奈良県をさす大和国も、もとは大倭とか、大養和とか書いたがいずれも読みはヤマトだったのである。

天皇といつから称するようになったかという議論があるが、それは、天皇という漢字をいつから当てはめることにしたかというだけで、天皇と書いたから日本人が自らの君主を呼ぶ名が変わったわけでない。

はっきりしたことは分からないのだが、スメラギ、スメラミコト、アメノシタシロシメスオオキミなどの名があったようだ。それを中国に手紙を出すときにどうしたかよくわからないのだが(また漢字でどう書くか天皇自身や政治家が意識していたかも分からない。たとえば推古天皇ですら漢字の読み書きができたかも疑わしい。漢字は長らく漢族帰化人中心に使われていただけだった)、推古天皇のときの遣隋使は、日本書紀によれば「天皇」、隋書によれば「天子」と称したとあって藪の中である。それが、天武天皇のときには確実に天皇という表記が始まっており、平城遷都の前後には、律令でケースによっては天皇、皇帝、陛下と呼べというようなことも決まった。

しかし、平安時代に遣唐使も廃止して外交文書を出す必要がなくなったし、律令もなくなって日本は成文法の国でなくなったものだから、仰々しい呼び方も必要なくなった。諡号も院という言葉が使われ、漢文として意味のある聖武だか光仁でなく、白河だとか三条とかいう地名を使うことが主流になった。それが元に戻ったのは幕末の光格天皇からである。

また、天皇の呼び名は、ミカド、オカミ、シュジョウ、ゴショ、テンチョウ、スメラミコトなど、それぞれの社会的サークルごとに乱立していたのである。

このあたりを、時代別に言い換えても煩雑なだけであって、宮内庁が天皇という名で統一しているのだから、それを使ったうえで、「天皇の呼び名は時代によって違う。また、諡号は後世になってつけられたものも多い」と説明しておくのが妥当なのだと思う。

尊皇思想は豊臣秀吉が実践し江戸時代も地下支脈として存在

それから、万世一系とか日本の象徴だとかいうのが水戸学とそれを引き継いだ長州の史観だというのは賛成しかねる。

たしかに、江戸時代でも関東の下級武士層などにとっては、朝廷とか天皇とかは縁遠いというかほとんど意識のなかにない存在だったのは確かだ。新井白石が天皇など山城国の領主といったのはそういう意識だ。

しかし、将軍や大名はどうかというなにするののと、これは、天皇が将軍の上に君臨しているのであって、朝廷の怒りをかったら将軍の地位も危ないという意識は広くあったし、朝廷からもらう官位に対する大名たちの熱心さはあきれるばかりだ。

そういう二重構造を池田氏は、一般の武士の意識でご覧になっているし、私は将軍や大名たちの意識から見ているという違いなのだと思う。

「忠臣蔵」での将軍綱吉は、母の桂昌院のために従一位をもらうために勅使を接待し、それに汚点をつけたと浅野内匠頭に切腹させたのである。吉良と上杉の関係でも、官位は吉良の方が上だということを知らないと、話が見えてこない。

松平定信は、将軍家斉に「六十余州は禁廷より御預り遊ばれ候御事」と諭していた。また、江戸城の風俗も、家光の時から公家の娘を迎えて、どんどん、御所風に近づいた。つまり、武名を背景に朝廷なにするものぞというのは、二代将軍秀忠までで、家光からは「朝廷から委任を受けている」というのが権力の正統性の根源になり、御所風であるがゆえに有り難がられるのが将軍の権威を高めることになっていた。

ただ、将軍は京都には行かないし、天皇は江戸に来ないから上下関係が可視的にならなかっただけだ。それが幕末に家茂が上洛したとたん、上賀茂神社参拝に供奉させられ、将軍も天皇の家臣であることが可視化されてしまった。

そもそも、鎌倉時代は京都と鎌倉にふたつの政府があったような体制だ。室町時代は足利義満が朝廷を凌駕した時代ととらえる人もいるが、実態をよくみると、むしろ、関東武士だった足利氏が、公家化して摂関同格のような地位を占めたというほうが理解しやすい。これは、義満の母が石清水八幡宮の社家という公家的な出身によるところが大きい。

そして、豊臣秀吉は、将軍よりワンランク上の関白になって、天皇の代理人として公家と武士と両方に君臨した。当時の席次を見ると、天皇がその場にいない限りは、秀吉が上座の中央に座り、上座にはそのほかに、摂関家と豊臣一族、親王、足利義昭(准后扱い)、下座にはそれ以下の武家と公家が左右に並んでいる。この考え方は、明治体制初期の序列と権力構成に非常に良く似たものだ。

それに対して、徳川家康は、天皇から天下の支配権を必ずしも認められていなかった。将軍にはなったが、それは、関東の軍司令官でしかなかった。家康が将軍になったときにも秀忠のときにも秀頼を関白にするという噂があったし(つまり公家たちにとって豊臣関白、徳川将軍の並立はありえるということだったのだ)、家康が二年で将軍をやめたあとは、将軍秀忠より娘婿の秀頼のほうが官位が上になった。

この二重公儀状態は大坂夏の陣で終わるのだが、徳川家の朝廷における位置づけは、摂関家より下の清華家なみということで幕末まで変わらない。

水戸光圀の裏の意図と長州のリベンジ思想

それでは、水戸光圀が編纂をはじめた「大日本史」の考え方をどうとるかだが、水戸光圀は徳川家が新田氏であるがゆえに南朝を正統としたのだろう。また、当時の大名にとっては、自分たちは将軍家の家臣なのか天皇の下での同僚のトップだというだけなのか葛藤があった。

御三家でも尾張と紀州は御三家とは将軍家と尾張と紀州とかいって、同格という意識は明確なものだった。ところが、明らかに格下の水戸家にとっては、徳川幕府の論理のなかでは、ほかの御三家と同格とはいえない。

そこで、少なくとも徳川一門とか外様大名は、京都と江戸が戦えば京都につくべきなのであるとかいう理論武装をして尾張や紀州と同格になりたかったのであろう。

それが、いわゆる後期水戸学になると、いわゆる過激な尊王攘夷思想になって、しかも、天保のお家騒動においては水戸斉昭が自分を排斥して将軍の子を水戸藩主にしようという勢力に対する党派的イデオロギーとしてこれを利用した(これは斉昭の子の慶喜が回顧録で語っているところだ)。そして、それが全国の尊王攘夷派に広まった。

一方、薩長土肥のような西国の外様大名にとっては、豊臣時代のイデオロギーが公式に否定されることなくなかば維持されていた。文禄慶長の役が消化不良のまま終わったことのリベンジも諦めていなかった。

そんななかで、長州では村田清風がすでに明治維新へのレールはひいていたわけである。吉田松陰は偉大だが、それは主として教育者としてのものであり、日本が朝廷のもとで一致団結して異国船に当たり、さらには、大陸に進出して頼りない清朝にかわってアジアの盟主として欧米に対抗するというのは、政治的には豊臣的体制の復活ということだっただったと思う。

それから、池田氏には、私の考え方はかたちを変えた皇国史観だといわれているのだが、私には「皇位継承と万世一系に謎はない ~新皇国史観が中国から日本を守る」(扶桑社新書)という著書があるから、それは、別に否定しない。

日本書紀などに書いてある歴史から中世以降に付け加えられた神がかり解釈を消したら、史書としてほぼすべて正しいというのが私の古代史論である。「神武東征」はなかった(天皇家の先祖が少人数で日向からヤマトに移住して成功したということしか記紀には書いてない)という過激なものなので、保守派の人からは賛成を得られていないが反論はかなりやりにくいはずだ。

新著「日本と世界がわかる 最強の日本史」(扶桑社新書)もそういう考え方で書いている。

日本と世界がわかる 最強の日本史 (扶桑社新書)
八幡 和郎
扶桑社
2017-03-02
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学大学院教授

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