「洋の東西」に分ける日本と「東方西方」に向き合う中国

2017年03月05日 11:30

清末から民国にかけての上海を舞台にした最新映画『上海王(Lord of Shanghai)』を見ていて、すっかり忘れていたことに気付いた。マフィアの仲間が一時身を隠すため、「東洋に行く」と話すセリフがある。英語の字幕は「Japan」とある。中国で東洋、東瀛(とうえい=瀛は大海の意味)といえば日本を指す。大陸国家の中国にとって、大海の先にある日本は、伝説に包まれた島国として強く意識されていた。

日本での東洋はアジア全域を指し、西洋との対比として誕生した。「洋」とは言っても、海を基準とする厳密な概念ではなく、近代以降、欧米文化の流入によって生まれた文化的な区分を含む。地理的にどこからどこまでと明確な線引きができるわけではない。「西洋(オクシデント)」に対する「東洋(オリエント)」は、いわば借りてきた概念だ。日本人が東洋というとき、自分が含まれているのかいないのか、なにを中心としているのか、どこか座りが悪いのはそのためである。

東京五輪を前にした1960年代、強豪のソ連を破った日本の女子バレーに対して冠せられた「東洋の魔女」の異称は、西洋から見た日本であったが、中国においてはまさに「東洋=日本」のイメージのまま輸入された。


中国は、日本人が分ける「洋の東西」について、東方、西方と言う。近代以降、日本から多数の和製漢語を取り入れた中国だが、「東洋」「西洋」は受け入れなかった。西方がユーラシアと陸続きになっている中国は、大海によって世界を分ける発想がないからだ。海洋進出についても、明代の永楽帝が鄭和に遠洋航海を命じ、アフリカにまで到達しているが、王朝の権威を高める朝貢の強要が主たる目的で、領土拡張にはつながっていない。陸戦は重ねてきたが、概して海洋に対しては無頓着である。

毛沢東の軍事戦略も海軍建設よりは、核兵器開発と陸上戦の両面をとった。沿海部の軍事工場を内陸に移したのはそのためだ。鄧小平時代以降、中国は沿海部を改革開放の拠点と位置づけ、海の外に目を向け始める。そして今、習近平総書記がさかんに二つのシルクロード経済圏「一帯一路」をアピールしている。

大陸続きに中央アジアを経由してヨーロッパにつながる「シルクロード経済ベルト(一帯)」と、沿岸部から東南アジア、アラビア半島、アフリカ東岸に至る「21世紀海上シルクロード(一路)だ。中国からみた東方と西方を結びつける発想である。グローバル化の中で、中国が歴史的な発展を踏まえて提示した戦略と位置づけることができる。

習近平の父は、かつてシルクロードの中心だった陝西省で生まれ育ち、彼自身も同省の農村で暮らした経験がある。また、沿海の福建、浙江省で長く党・政府の経験を積んでいる。陸と海の両面から世界を把握する発想を持っているとみるべきだ。

日本はシルクロードの終着点として多くの文物を受け入れ、現代にまで伝える貴重な役割を担ってきた。だが、「洋」にとらわれる地理的な制約から、大陸を起点とする発想に欠けている。陸の向こうに広大な世界が広がっていることにも目を向けるべきだ。そこから目を背ければ、おのずと太平洋をはるかに隔てた米国への一辺倒に向かうしかなくなる。トップ同士がゴルフをしただけで大騒ぎをしている日本のメディアは、頭を冷やし、世界地図を広げながら歴史を回想した方がいい。ヨーロッパは米国の先にあるのではなく、中国の西方に陸続きで存在し、功罪を含め、往来を続けてきた歴史がある。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年3月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!
加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

関連記事

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑