ルールで縛るのではなく、内発を導くことの大切さ

2017年03月13日 06:00

福岡への環境保護取材ツアーを月末に控え、参加する学生6人との議論にも熱が入る。先日は生物多様性について話し合った。現在の環境が過去の遺産によって成り立っているのだとしたら、その恩恵を受けているわれわれは将来の環境に責任を負う。人間は多様な生態の一部であり、その中でしか生きることができない。だとすれば、生物多様性の破壊は自滅を導くしかない。訪問時、日本はちょうど桜が咲き始めるころだ。花見の中に、日本人が自然といかに向き合ってきたかを探ることはできないか。そんな取材テーマも含んでいる。

全校を対象にした「日中文化コミュニケーション」のクラスに生物学専攻の男子1年生がいた。授業中、文化の多様性を論じる中で、生物多様性を引き合いに出した。彼がすらすらと概念を紹介してくれ、クラスの多様性をありがたく思った。彼にエドワード・O・ウィルソンの『バイオフィリア(Biophilia)』を読んだことはあるかと聞いたら知らなかった。まだ1年生だからなのか。中国語の翻訳版もどうやら出ておらず、原語版の紹介しか見当たらなかった。

同書はちくま学芸文庫で日本語版がある。人間は生まれながらにして、生き物に対し関心を抱く傾向を持っている。それをウィルソンは「バオオフィリア」という造語で表した。「バイオ」は生物、「フィリア」は愛を意味する。熱烈なナチュラリストである著者の思いが強く込められた言葉だ。中国のネットで検索したところ、翻訳例としては、「生物之恋」「生物熱愛」「親生物性」など苦労の跡がみられた。カタカナでそのまま翻訳されると、意味が伝わない。日本ももっと意訳を取り入れるべきだ。

世の中には動物嫌いの人も多い。だがそこにはたいてい幼少時の苦い経験がある。わけもなく追いかけられたとか、不快な手触りとか。もしかすると、その忌まわしい体験がなければ、動物好きだった可能性もある。本能か主か、環境か主か、の議論を始めたらきりがないが、程度の差はともかく、いずれもがかかわりあって人間、そして生物の行動が生まれるとみるのが正しいと思える。動物を虐待、乱獲したり、熱帯雨林を平気で伐採したりしてしまうのは、本来の姿ではなく、人間社会で生きるため、肥大化した欲望のため、生物愛の本能を忘れて行っていることだ。

性善説を唱えた孟子も、対象はあくまで人間に限られているが、似たようなことを言っている。

「惻隠の心がないものは人間でない」「惻隠の心は、仁の始まりである」(『孟子』公孫丑章句上)

惻隠の心は、困ったものをみて、自然に生まれてくるあわれみの情だ。見ず知らずのおさな子でも、井戸に落ちかかっているのをみたら、だれもがとっさに駆け寄って救おうとする。親から褒美をもらうためでもなく、人にほめられたいからでもなく、非難を恐れてでもない。放ってはおけないと感じる、そういう忍びざるの心である。だが多くのものは目先の利益に心を奪われてあくせくし、功を急ぎ、あるいは怠惰に流れ、浩然の気を養うことを忘れている。環境がひとの心を眠らせているのだ。日々の行動の中で、人の情は目覚めるのだと孟子は言っている。

全人代で議論されている初の民法草案には、民事責任の項目に「生態環境を修復する」ことが盛り込まれた。法に頼るだけでは、生態環境も改善されるず、生物多様性も守ることができないことはだれでもわかっている。外から強制する発想ではなく、うちにもともとあるものを引き出していくと考えた方が、人はより前向きになることができる。人そのものを育てる教育もまた同じではないかと思う。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年3月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

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加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

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