魯迅が語った「道」と高村光太郎の「道程」

2017年05月31日 06:00

「道」という漢字には首がある。首は人である。人が進むからこそ道である。人から外れたものはけものみちだ。人の歩く道は路ともいう。思考、思惟、思想もまた、人の頭がたどる道である。中国人は2000年以上にわたり、道を問い続けてきた。『論語』は「朝(あした)に道聞かば 夕べに死すとも可なり」と、峻厳な覚悟を示した。

魯迅(1881-1936)が短編小説『故郷』(1921)の最後に書いた有名な言葉がある。

「其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路」
(実際、地上に道は初めからあるのではなく、多くの人が歩くから、それが路となるのだ)

資産家だった紹興の実家は破産し、家財道具を売り払って転居を迫られる。幼少時、自然との遊びを教えてくれた下男の息子がやってくる。懐かしい思い出に浸っていたが、目の前に現れたのはみすぼらしい男でしかなった。貧乏人の子沢山に加え、飢饉や重税、悪政が重なり、疲弊の極みなのだ。その男は、どんなにどん底にあっても、香炉や燭台を求め、偶像崇拝の封建思想から脱していない。

主人公の「迅」はそんな光景に暗澹とした気持ちになるが、同時に自問自答を迫られる。自分自身が抱いている希望も、実際は自分が作り出した架空の像なのではないのか。「ただ、彼の望みが身に迫ったもので、私の希望がはるか先のぼんやりしたものである違いだけなのではないか(只是他的愿望切近,我的愿望茫远罢了)」、と。列強に浸食され、半植民地と化した祖国の人々はなお、奴隷根性を引きずって、個人が独立していない。そんな時代背景を背負いながら、魯迅は「人が歩いてこそ道ができる」と訴えた。

一方、ほぼ同じ時期、日本の高村光太郎(1883-1956)は『道程』(1914)を発表した。

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

光太郎は高名な彫刻家、高村光雲を父に持ち、その権威の重圧に苦しんだ。欧米での遊学後、日本の美術界に反抗しながら、智恵子との愛によって生きる望みを取り戻す。『道程』は当初、102行あったが、すさんだ生活の日々を振り返る部分を切り落とし、父との軋轢を乗り越え、再生への決意を語る9行のみを残した。あくまで自分と向き合うことに主眼が置かれている。

光太郎が『道程』を書いたとき、日本はロシアを破って世界の列強に名を連ね、まだ昭和の暗黒は見えていない。一方、対岸の中国にあって、国家、社会の命運と個人の運命が分かちがたく結びつき、そこから目を離すわけにはいかない知識人の魯迅とは、時代背景も境遇も大きく異なる。魯迅は日本での医学留学の道を志半ばにして棄て、祖国で国民精神の改造に筆を振るう。「人を食う」儒教を封建思想の元凶とみなし、民主と科学のスローガンによって1919年の五四運動をリードする。魯迅が語る「道」には、大きな民族が想起されているが、光太郎の「道」はあくまで個人の人生に収斂している。大文字と小文字ほどの違いがある。

魯迅の「道」に関する名言には、前段に「私が思うに、希望は、あるとかないとかと言うべきものではない。ちょうど地上の路と同じだ」との一文がある。机上の論や現実逃避に甘んじることなく、目の前にある真実から逃げず、凝視しようする良心の決意と覚悟が感じられる。

だが、日中の偉人が残した言葉に共通点を見出すこともできる。悲観的な過去を土台にしながら、将来を楽観している明るさと強さである。この点において、私は中国の学生に両者の「道」をともに語り得るよりどころを探し得た。今週の「日中文化コミュニケーション」課程で、日中の「道」比較を語る準備をしているところである。学生たちは「武士道」「剣道」の研究発表を予定している。驚いたことに、アニメや電子ゲームの影響があるというのだ。

時代の移り変わりに驚くばかりである。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年5月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

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加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

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