小林麻央さんの死をどう受け止めればいいのか:「消費論」を超えて

新田 哲史

小林麻央さん公式ブログより

「小林麻央さんが亡くなったのではないか?」

きのう(6月23日)私が一報を察知したのは、都議選の現場に向かう途中の朝、知人のジャーナリスト氏のFacebook投稿を見かけた時だった。彼は独自の情報源もあったようだが、すでにネット上は、海老蔵さんが早朝に更新したブログで「人生で一番泣いた日」と投稿したのをきっかけに、騒ぎが大きくなり始めていた。

麻央さんはニュースキャスターでしばしば現場取材にも出かけていたが、その頃、私は彼女と畑違いのスポーツ記者だったこともあり、接点は全くない(姉の麻耶さんとはバレーボールの試合等で、しばしば居合わせたことはあるが)。ただ、妻が海老蔵さん、麻央さん夫婦のブログは関心を持って毎日のように見ていたので、私もごくたまにだが、アクセスしたり、家庭内の話題にしたりすることはあった。

亡くなられたので本音を書くと、自宅療養に切り替えた時点からある種の「覚悟」のようなものを感じてきた。そして、訃報を聞き、一時帰宅して海老蔵さんの記者会見中継を見て、最期の言葉が「愛している」だったことが明らかになった時、涙した。

彼女と一緒に仕事をしたことのある友人の日テレ関係者のFacebookでは、その人柄をしのばせるエピソードが紹介されていたが、同じくFacebookで注目した投稿もあった。あるネットメディアの重鎮が、麻央さんの死もまた、メディアを通じ皆に「消費」されているのではないか、と。

メディアの仕事は因果なもので、取材対象の死に対してドライに向き合っていかないといけないこともある。取材対象の著名人で、高齢に入っていたり、麻央さんのように重篤が予想されたりする場合は、業績などをまとめた「予定稿」を用意するといった準備もしなければならない。

取材分野によっては訃報の予定稿は歴代の担当記者で引き継がれていて、私も新聞社時代には、定期的に更新されている予定稿を見た時、ものすごい神妙な気持ちになったものだ。きのう我が古巣のデジタル版は珍しく、訃報直後に在りし日の麻央さんの写真のスライドショーを早々とアップしていたが、Xデーへの備えを極秘に事前に行っていたのかもしれない。

話が少しそれた。前述の「消費」論は、人の死が一過性の話題になりがちなことへの戒めも込めての問いかけだったように思えた。ただ、歌舞伎界の名門、市川宗家にまつわる“ストーリー”の特性上、これからもメディアは「商品」とし、大衆は「消費」するという側面は確かにあるだろう。

海老蔵さんが、十三代目・団十郎の襲名に向け、大スターへの階段を登っていく、同時に、残された2人のお子さん、特に市川宗家の跡継ぎである長男の勸玄くんが成長していくプロセスは、引き続き、国民的に注目され、節目ごとにメディアは麻央さんのことを取り上げていくのだろう。

ただ、今回については、がん患者の闘病のあり方、家族の向き合い方といった、誰にでもあり得る社会性の強い悲劇という側面もある。そして、麻央さんがその闘病記をブログという形でファンの人たちとコミュニケーションを取ってきたことが、テレビ全盛期の大衆的関心事項とも少々異なるような現象にも思える。会見で印象的だったのは、海老蔵さんが「ブログ」という言葉をなんども口にしていたことだ。

テレビ時代の芸能メディアの表層的な消費のされ方以外に、当事者と人々との間に新しい形の「絆」が形成されることで、野次馬的関心と同等以上に、遺族を見守るという、やさしい視点がファンにもできているのではないかと期待している。

私たちは、麻央さんの死をどう受け止めるのか。知り合いの会社経営者は麻央さんの訃報直後「いま生かされていることに感謝する」とSNSに投稿し、それにとても共感した。私自身は、去年、子どもができ、同じ幼児を持つ一人の親として、子どもを残して旅立たねばならない無念さに思いをはせながら、日ごろの喧騒から一歩立ち止まり、なんでもない日常が実は幸せなことであり、家族との関わり合い方について、考え直す貴重な機会をいただいたと思っている。

小林麻央さんのご冥福を心よりお祈りします。