神道政治連盟の憲法観に疑念を感じる理由 --- 郷原 章

寄稿

神道政治連盟サイトより(編集部)

一つの思考実験をしてみよう。ある政党が「新しい」国旗と国歌を制定しようと主張して与党となった。当然、激しい議論が予想される。あるものは論理的に、あるものは感情的に。そして反対の中からは、おそらく「与党」が「反日」であるといった言辞を用いて批判する「野党」が出てくるだろう。「与党」は主張する。曰く「今の時代に相応しいものが必要」。「レッテル張り」はやめろ。「反対ばかり言わず、代案を出せ」。しかし「野党」も引き下がらない。そもそも愛着があり、変える必要などないと考えているのだから。

多少乱暴ながら、このような例を出したのには理由がある。それは、次のことに自覚的になりたいからだ。つまり、国を体現するもののうち、国旗、国歌、憲法において、日本は大きく分断されている(されてきた)、ということである。これらの変更に対し、どのような態度を取るか、それは論者の立場次第であるということだ。立場と対象しだいによって「反対ばかり」ということにもなる。

ここで「神道政治連盟」という団体の主張を紹介したい。その主張がなかなか興味深いので一部引用する。

現行の日本国憲法は、残念ながら日本人として自身と誇りを持てない恥ずかしい憲法です。特に甚だしいのが前文と第一章の天皇条項でしょう。

前文には、当時のアメリカ人が勝手にそう信じ込んでいたらしい「人類普遍の原理」とか「政治的道徳の法則は、普遍的なものであり」といった言葉がつらなっています。あたかも自然科学の世界と同じように、人間の政治の世界にも各国の歴史や伝統とは無関係に、万国共通の普遍の原理や法則が通用するかのごとくです。さらに「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文言に至っては、まさに現実離れの「空言」と言えるでしょう。このように、他国人が起草した、違和感のある非現実的な日本国憲法を維持していることを、日本人は何よりもまず「恥ずべきこと」と考えなければならないでしょう。

大変強い批判である。

では、批判対象のひとつである「人類普遍の原理」の部分について、現行憲法を見てみよう。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」

憲法が人類普遍の原理と形容しているのは「国民主権」の理念である。国民が国の代表に主権の行使を信託し、代表が行使した結果得られる福利は、国民が享受する、とある。もちろん日本は民主主義国であるから、ここを「恥ずかしい」と主張する自由もある。なにより、ある理念からの自由、つまり「~からの自由」は尊重されねばならない。(これは全体主義を防止するうえで重要な理念である)

これに関して神道政治連盟国会議員懇談会というものがある。リンク先のサイトによると、2017年6月20日現在、自民党議員を始め多くの国会議員が参加しているようである。改憲に積極的な現内閣総理大臣の安倍晋三氏、自衛隊も自民党を応援する旨の発言で物議をかもした稲田朋美氏、そして河野太郎氏までいろいろな名前を見ることが出来る。

それぞれ信念はあるだろうが、加盟する以上、議員にとってここの主張は、少なくとも拒絶するほどではないのだろう。(自民党の改憲案や自主憲法案=神道政治連盟の改憲案と、言うつもりはない)

しかしである。私個人としては、驚きなのだ。現行憲法が、日本の民主主義の根幹である国民主権の普遍性を説く部分をとても大切に考えている。であるから「恥ずかしい」とは到底言うことはできない。たとえ「付き合い」だったとしても、加盟議員にとって国民主権の規定はその程度のことなのか、と思われる。

さて、私は海外で生活している。各国の国旗が並ぶ中、祖国の国旗が見当たらないと、ある種の寂しさを感じるようになった。しかし、同時に祖国の憲法理念も重いものと考えている。もちろん国旗国歌だけでなく憲法への批判も自由だ。だから憲法に批判的な立場から、信教の自由や結社の自由を行使するのも、それ自体は当然だ。

しかし「~からの自由」が「~への自由」となり、「国民主権そのものへの懐疑」を伴う政策(憲法)として実体化されたらどうなるか。そもそも「国民自らが憲法を定める」という理念は「国民主権」に由来するものだが、それを否定する規定が出来てしまったら、もう国民には手出しできなくなるではないか。そういう視点から、あのような主張を掲げる団体への国会議員の加盟に疑念を感じつづけている。

この点、かつて、安倍氏は以前、憲法96条の改正要件を下げる主張をしたことがあった。しかし、その時感じたことは、国民主権、言論の自由などといった極めて重要な規定も容易に変えられるようになってもいいと考えているのかということだ。なにより、それが全体主義への道につながりかねないという懸念はなかったのだろうか、当時おもわれた。

もちろん、対外的な演説等では、日本は民主主義国だと安倍氏は言う。例えば、2016年8月14日の、いわゆる安倍談話ではこのように述べている。

「…先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。」

「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。」

大変「結構」な文言である。しかし私は、以前より神道政治連盟の憲法に対する主張を知っていたから、この談話を支持する加盟議員は矛盾している、と思っていた。一体どちらが本音なのか。奇怪な政治的力学が働いていそうである。

さて、憲法9条である。帰国前であり、紹介文しか読んでおらず本来言及する資格はないのは承知だが、ケント・ギルバート氏は、軍隊を持つだけで「軍国主義」になるのか、それは嘘だろうという趣旨の主張をしているという。

なるほど興味深く、帰国時に読んでみたいが、それも自衛隊という実力組織の活動によって生じた「福利」を「国民が享有」するという理念が確実に担保される保証があってこそではないか。もちろん、稲田氏ではないが、特定政党が選挙のために自衛隊を動員することを許してもならない。もし軍国主義を否定するなら、これらの諸理念を改変することは絶対に許してはならないだろう。

「ナチス憲法の手口を見習え」という旨の失言をした麻生太郎氏ではないが、憲法は脆い。ナチス・ドイツは民主的なワイマール憲法から生まれ、ちゃっかり全権委任法を通した。それが歴史の教訓である。たしかに国際環境は厳しい。しかし、憲法上守るべき理念はきちんと評価し「保守」しながら後世に伝えていかねばならない。これこそが、今私が政治家に最も求めたいことであり、同時に、最も国民に求められている事であると考える。

一読者として

在中国大学勤務、日本語教師
郷原 章