死刑の存廃は国民性や歴史を無視しては語れない

2017年07月10日 06:00

死刑執行施設のある東京拘置所(Wikipedia:編集部)

2007年に国連総会で死刑執行停止決議がなされ、その後もアムネスティー・インターナショナルなどから死刑を存置させている日本に対する非難が続いています。

死刑廃止論の主な理由は次の3点です。
1 誤判によって無実の者に死刑が執行されてしまった場合、取り返しがつかない。
2 死刑制度には抑止効果がない。
3 死刑は国家による殺人であり、是認できない。

これ以外にもたくさんの理由があるようですが、やはり決定的な理由は1の「誤判で無実の者に死刑が執行されてしまった場合、取り返しがつかない」でしょう。しかしながら、秋葉原の大量殺傷事件のような場合は(細かな部分で食い違いはあっても)犯罪事実は明らかで誤判の恐れはありません。死刑執行を否定する最大の根拠は存在しません。

これに対し、死刑存続の最大の理由として、日本の刑事法学者の多くは、「国民の総意」や「国民の意識」を挙げています。私がかつて刑事政策を学んだ時の最終的な結論はこのようなものでした。つまり、国民の多くが「死刑の存続」を支持している以上、死刑廃止は困難だということです。

ところが、日本人が死刑の存続を支持する歴史的背景や社会的背景について詳細に教えられずテキストにも書かれていなかったため、スッキリしない消化不良感を常に抱いていました。

今回は、私なりに日本人が死刑存続を支持する理由を考えてみたいと思います。
日本では、昔から「敵討ち」や「仇討ち」が行われてきました。江戸時代の法制度では、原則として武士が自らの尊属の敵討ちをすることが認められていましたが、武士でなくとも尊属でなくとも「仇討ち」は賞賛されて賞罰の対象にならなかったことが多かったそうです。

これに対し、西欧諸国では、ギリシャの叙事詩などでは父の敵討ちをする物語が多いのですが、ハムレットの時代になるとは堂々と敵討ちができなくなります。ハムレットは、父の仇と知りながら、あれこれ悩んだり、狂人のフリをしたり、他人を巻き添えにした挙句、自分自身も命を落としてしまうのです。

ギリシャ時代に堂々と敵討ちができたのに、ハムレットが書かれた17世紀頃の西欧では正々堂々と敵討ちをすることができなくなりました。おそらく、その背景にキリスト教の影響があるのでしょう。「汝の隣人を愛せよ」とか「最後の裁きができるのは神だけ」という教義が影響しているのかもしれません。

それに比べ、日本では、忠臣蔵に代表されるように「仇討ち」は一種の美学と考えられていました。江戸時代は言うに及ばず、明治初期まで「仇討ち」は合法的な制度として存続していたのです。被害者の遺族らによる「仇討ち」に代わって国家が犯罪者を処罰するようになったのは、1873年の「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)」という布告によるものです。

昭和時代の男の子が、誰かにいじめられたりすると「一方的にやられるなんて情けない。男ならやり返してこい!」と怒られることが多かったのも、「仇討ちは美風」という考えが残っていたのかもしれません。
キリスト教が2000年近い歴史を持っているのに対し、日本の仇討ち禁止の歴史は150年もありません。

このように、今日の日本人の死刑に対する意識は、被害者遺族の被害感情、報復感情を充たす制度として国家の刑罰としての死刑が存在するのです。もし死刑制度が廃止されれば、遺族自身が非合法的な方法で復讐を行う恐れすらあると私は考えています。

このように、死刑制度の存廃の是非は、長い年月によって培われた国民や社会の意識によって大きく異なるものなのです。もしかしたら、西欧人の目には、「忠臣蔵」は美学どころか極めて野蛮は物語に映るのかもしれません。

時代背景や宗教観、民族意識を無視して、一概に「死刑制度を存置している日本は野蛮だ」と決めつけるのは価値観の押し付けでしかありません。これは西欧文化の祖であるギリシャ文化を否定するようなもので、まさに”天に唾する”ような行為ではないでしょうか?

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荘司 雅彦
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2017-06-22

編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年7月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。

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