劉暁波の死を悼むことの意味①

加藤 隆則

ノーベル平和賞を受賞した中国人知識人、劉暁波氏が13日、亡くなった。享年61歳。末期の肝臓がん治療を巡って、政治的思惑の優先する論争が起きた。本人の意思を顧みず、もっぱら彼の病状を利用して、無益なやり取りが起きたことは残念である。「私に敵はいない」と言い続けた彼の思いを胸に刻みたい。敵と味方に分け、怨みや憎しみに陥ることを彼は戒めた。尋常ではない生き方を選んだ彼のみが発することのできる言葉だった。

ノルウェー・ノーベル委員会は「中国政府は早すぎる死に重い責任を負う」と非難したが、非常に違和感がある。彼の死はだれが責任を負って済すべき問題ではない。責任を持つことは権利をも有することを意味する。そんなことを彼の自由は許さないだろう。私は、短い人生を信念を貫いて全うし、与えられた運命に従容として委ねた彼の姿を思い浮かべる。彼は全人類に向け言葉を発した。われわれはそれをそれぞれの立場で受け止め、引き継ぐことが求められている。罵り合いはやめよう。

私は拙著『習近平暗殺計画 スクープはなぜ潰されたか』(2016年2月)の「はじめに」で、次のように述べた。

ニュースの素材には事欠かないが、メディアは中国共産党の統制下にあり、一党独裁体制を否定する言論や思想は、政権転覆扇動や国家機密漏洩罪のレッテルによって弾圧される。中国人にしか見えない隠れた社会のルールを「潜規則」と呼ぶ。明文化されていないが、法や制度よりも実質的に社会を支配している不文律である。トップの習近平総書記までもが暗黙の了解である「政治の掟」を公然と語り、これに反する敵対勢力を排除している。こうした潜規則を踏み越え、脇目も振らず真実を追求しようとする記者は投獄の危険さえ覚悟しなければならない。高いリスクの代償として恵まれた待遇があるわけではなく、賃金は工場労働者並みで、割に合わない「ハイリスク・ローリターン」の職業だ。安月給を補うためゆすりやたかりに手を染める記者が横行し、社会的地位も低い。

だが一方、中国では勇気を出して声を上げ、大きな犠牲を払って真実と正義を追求する人たちもいる。代表的人物は獄中から民主を訴え続け、ノーベル平和賞を受けた劉暁波氏(1955年生まれ)だが、私が直接会った人物の中で、忘れられないのは北京の法学者、許志永氏(1973年生まれ)だ。彼は大学で教べんを取っていたが、それに飽きたらず自ら社会の中に入り、憲法による権利擁護の実践を呼びかけた。度重なる弾圧にも屈せず、出稼ぎ労働者ら社会的弱者を救済する運動に身を投じたが、群衆を集めた「違法集会」を理由に刑事訴追され、2014年4月、懲役4年の刑を受けた。芯の強さとは裏腹に、物静かに国の将来を憂える姿は、私の記憶から消えたことがない。

情報統制による直接的なコントロールを受けない外国人記者は、「ニュースの天国」のみを享受できる特権的な立場にある。取材対象者に対する圧力や記者ビザ発給の制限で取材活動が妨げられることはあるが、中国人記者に対する締め付けとは比べものにならない。私も外国人記者の一人として「天国」の恩恵に浴したが、困難を乗り越え自由を勝ち取ろうとする中国人を間近に見ながら、常に自問してきたことがある。投獄の危険がない日本社会の中で、我々記者は真実を追求する気概と責任を忘れてはいないか。唯々諾々として会社や上司の指示に従い、人の批判を恐れてやすやすと妥協し、簡単にペンをゆがめてはいないだろうか。新聞社の仲間から聞かされる話は、失敗を恐れる事なかれ主義が幅を利かせ、だれも責任を取ろうとせず、みなが押し黙って大勢に流されている姿だ。草を食みながら黙々と歩く羊の群れを思わずにはいられない・・・・・

以上に述べた内容は今も変わっていない。

劉暁波の名を借りて中国批判、共産党独裁批判をするのは結構だが、それを伝えるメディアは彼が訴え続けた言論の自由をいかに実践しているのか。自問自答することこそ、彼の死を受け止め、悼む最善の方法ではないのか。

罵り合いはやめよう。静かに考えよう。(続)

---札幌にて


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年7月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。