ノルウェー国民を苦しめる「なぜ?」

アンネシュ・ベーリング・ブレイビク受刑者(38)がノルウェーの首都オスロの政府庁舎前の爆弾テロと郊外のウトヤ島の銃乱射事件で計77人を殺害した事件から今月22日で6年が過ぎた。

ブレイビク受刑者の犯行舞台となったウトヤ島(ウィキぺディアから)

事件を追悼する集会がオスロで政府関係者、遺族関係者の参席の中で行われた。エルナ・ソルベルグ首相は、「われわれは犠牲者を慰霊すると共に、勇敢に人々を救うために戦った方々の名誉を称えたい」と述べている。

ブレイビク受刑者は21年の禁固刑を受け収監中だ。事件に対してこれまで一度として悔悛を表明していない。それどころか、独房生活が人権を蹂躙しているとして裁判に訴え、2016年4月20日、オスロの裁判所から「長年、独房だったことは受刑者の人権を蹂躙し、人権宣言の内容に違反する点もある」という趣旨の判決を勝ち取ったが、最高裁に訴えは退けられている。また、ブレイビク受刑者の弁護士が先月9日明らかにしたところによると、「ブレイビク受刑者は名前を改名し、フィヨトルフ・ハンセン(Fjotolf Hansen)とした」という。その目的は不明だ。

ブレイビク受刑者は収監後、独房生活だ。独房は31平方メートル、寝室、仕事、スポーツの3部屋があり、1台のテレビ、インターネットの接続がないコンピューター、そしてゲームコンソールがある。食事と洗濯は自分でやり、外部との接触が厳しく制限されている。郵便物は検閲される。

ブレイビクの両親は離婚し、外交官だった父親はフランスに戻った。ブレイビクは少年時代、父親に会いたくてフランスに遊びに行ったが、父親と喧嘩して以来、両者は会っていない。受刑者はオスロの郊外で母親と共に住み、農場を経営する独り者だった。両親の離婚後、ブレイビクは哲学書を読み、社会の矛盾などに敏感に反応する青年として成長していった。

ブレイビク受刑者の世界は「オスロの容疑者の『思考世界』」(2011年7月26日)と「愛された経験のない人々の逆襲」(2011年7月27日)のコラムの中で詳細に紹介したので関心ある読者には再読をお願いする。

なお、ノルウエー政府は犯行現場となったウトヤ島に犠牲者の慰霊碑を建立する計画だったが、同島の自治体ホール(Hole)の住民が、「犯行を常に思い出させる慰霊碑の建立に反対」を表明し、事件から6年が経過した今も、慰霊碑はまだ建立されていない。

スウェ―デンの芸術家がモダンな慰霊碑を草案したが、島の住民が、「旅行者の観光地となる」と反対。ここにきてようやく、ウトヤ島埠頭で慰霊碑を建立することで島と遺族関係者、市当局が一致、市建築部が建立作業を進めることになったという。ちなみに、ノルウェ―の映画監督が「7月22日の出来事を記録させることは重要だ」として、映画化する計画を進めている。

独ミュンヘンのオリンピア・ショッピングセンター(OEZ)で昨年7月、銃乱射事件が発生したが、犯人は18歳の学生で、ブレイビク受刑者の大量殺人事件に強い関心を寄せていたという。銃乱射事件はブレイビク事件5年目に当たる7月22日に行われた。偶然ではなく、犯人が恣意的に22日を選んだことが考えられる。

ブレイビク受刑者の言動がメディアに報じられる度に、ノルウェ―国民はやり切れなさを覚えるという。悲劇の幕を閉じることが出来ない苛たちかもしれない。「どうして多くの若者が犠牲となってしまったのか、わが国の社会で、なぜブレイビクのような人間が出てきたのか」等の疑問に答えが見つからないからかもしれない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年7月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。