自国の立場を正当化する国史に価値無しという暴論

2017年08月04日 11:30

国立国会図書館デジタルコレクションより(編集部)

コラムニストの尾藤克之氏が宮脇淳子氏の『どの教科書にも書かれていない 日本人のための世界史』(KADOKAWA)を紹介するかたちで、表記のようなタイトルの不見識な投稿をされていたので反論したい。

いま世界史ブームであって、これまで売れないといわれていた世界史の本がよく売れている。しかし、問題は、日本では西洋史、東洋史、日本史という三つのジャンルに専門分野を分けていたので、相互の連関性が希薄だし、人為的に境界線を引いてしまったことで見えなくなっていることが多い。

そこで、私も『世界と日本がわかる 最強の世界史』『日本と世界がわかる 最強の日本史』(扶桑社新書)という二冊セットの本を半年ほど前に刊行したら意外なほどよく売れている。また、最近、地図を多く入れてビジュアル化した『世界とのつながりで見る日本史』(宝島社)も出したのは、まさにそのような観点からだ。

また、同様の意味で宮脇氏がこれまで弱かった北アジア史の観点からの視点を入れた著作を多く出されているのは意義深いもので私も触発されている。

なぜなら、ほかの多くの分野と同じように、歴史も多様な視点からみることが有意義だからだ。その意味で、日本から北アジアをみたらどうなるのかという視点も有意義なのであるはずだ。

そもそも、あらゆる学問がそうであるように、歴史学もそれをどう活用するかという目的によって違う見方が必要だ。

労働法という学問分野はあらゆる立場の人の利害を普遍的に包摂したものだが、それを労働者と雇用者の利益を守るためにそれぞれに立場から論じたり著作を書くことが無意味なはずがない。

地球環境問題でも南の島の住人とシベリアの人々、環境派の人と企業家の立場からそれぞれ論じることが意味がないはずもない。

だから、日本史も世界史もさまざまな視点と目的とで論じられるべきもので、ひとつの正しい視点があるわけでない。そのなかで、戦後の日本の歴史研究で、完全に欠落しているのは、日本国家の立場を強化するための「国史」であって、列島史でない国史こそがわれわれがいま必要としているものだと思う。

戦後の日本史も東洋史も、学者たちは、一貫して、日本が再びアジアに進出して主導権を取ろうなどという気持ちを持たないようにするために構築されてきたと言っても過言でない。

そして、東洋史は「中国から見た東アジア史」に「韓国朝鮮の歴史的妄想へのへつらい」という調味料をふりかけた珍奇なものになってしまった。そこに日本国家の立場の主張や擁護はつゆほどもない。そして、西洋史は欧米人の視点からの観察からなにひとつ出ていない(逆にアンチ欧米の視点からのものはあるが、普遍的、あるいは日本人の視点からのものは少ない)。

自虐的な目的から日本史は日本国史でなく日本列島史にされてしまった。それを宮脇氏は批判しているのは正しいのだが、それが国史というものを批判することに繋がっているのは誤爆と言わざるを得ない。

宮脇氏は「日本最初の歴史書である『日本書紀』の枠組みにとらわれすぎていることを、私たちは自覚しなければなりません」と書いているが、これはまったくの不見識だ。

日本書紀の主眼はむしろ朝鮮半島における日本の国益を正しく守るための理論武装を主目的として書かれたようなもので、延々と任那について書かれており、列島史の対局にある国際感覚あふれるもので、宮脇氏の指摘は誤っている。

「漢字や仏教が大陸から伝わる前から日本人は独自の文化をもっていたという考え方は、『日本書紀』『古事記」の日本神話に基づいています。日本の文明こそが世界一古く、君主は万世一系だというような日本中心の史観では、何を論じても、結局は、他国と大同小異で、同じ土俵上で争っていることと同じです。」(宮脇氏)などという指摘は何をいっているかさっぱり分からない。

記紀は日本が世界最古の国だとしているわけでもないし、外国文化の影響を軽くみていることもない。宮脇氏が批判すべきなのは、記紀を超えて旧石器時代や縄文時代の日本を褒め称えたり、日本に独自の文字があったと断定的にいう人たちであって、本来の記紀の世界ではないはずだ。

「自国の立場を正当化するために書かれる国史をどんなに集めても、世界史にはなりません」といっているが、そんなことは、「犯罪人のために書かれたものと警官のために書かれたものなどを集めても刑事法学になりません」といっているのと同じで、それはそうだが、犯罪人の立場からの考察も警官のための指針もいずれも大事であって、意味がないわけでないから何言いたいのか分からない。

そして、いま日本においてもっとも必要なのは、日本列島の歴史なのか、日本人の歴史なのか、韓国人の立場からの 日本論なのかさっぱり分からない「日本史」ではない、「日本国家」の歴史、つまり国史である。

中国や韓国、北朝鮮ははじめ、どこの国でもその国家の歴史観も外交的主張も教育やマスコミ報道を通じて国民にたたき込まれている。ところが、日本ではマスメディアでも首相や閣僚の外交活動をごくわずかしか報道もしない。

たとえば、外国首脳が訪日して首相と会談する、首相や外相が外遊すればどこの国の放送局でもきちんと報道する。また、発言もその基本部分をそれなりの長さでそのまま放送するが日本の放送局はそれをしない。

また、領土問題でも竹島が日本の領土で韓国に不法占拠しているという事実を書くことすら躊躇しているが、本来は、その経緯や主張の根拠を国民全員にたたきこむべきなのだ。日韓併合が有効かどうかとか、日本領の任那を新羅が侵略したというようなことを日本人は知り、韓国人に反論したり第三国の人にきっちり説明しなくてはならないがまったくできてない。

というより、それ以上に、現代的な「日本国史」が確立されていないのみならず、そんなものは無意味だという愚か者がいるので研究もされてないし政府もまとめもしていない。

それは国粋主義的な主張でなく、世界のあらゆる国における常識に従うべきだと言うだけだ。日本は憲法第九条で武力を制限されているからこそ、インテリジェンスを重視しソフトパワーのハリネズミにならねばならないはずだ。

もちろん、かつての皇国史観のようなものは、ひとりよがりで、世界に対する説得力をもっていないので排除されねばならない。外国人にも説得的でそれがゆえに国益を増進する本来の「国史」が必要だし、私の著作もそうしたものを求めての試みである。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学大学院教授

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